礼拝説教 要約と音声


礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。

2024年4月21日

生きている者の神

マルコ12章18-27節

 

パリサイ人とヘロデ党の人が主イエスの言葉尻をとらえられず、次にサドカイ人が質問に来ました。サドカイ人とは祭司階級の人で、復活を否定していました。

彼らは、極端な例を挙げて、7人の兄弟と順番に結婚した人がいたら復活の際には誰の妻なのかと聞きます。それに対して主イエスは、彼らが聖書も神の力も知らないので、思い違いをしていると答えました。彼らは、地上のことばかり考え、神が分かってないのだ、と。

具体的には、第一に復活したら人は天のみ使いのように、結婚する事はないという事。第二に出エジプト記で、

神が「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と語っておられ、神は生きている者の神であるからアブラハムたちも生きている、つまり復活はあるのだという事でした。

サドカイ人は神学的に考えて復活がないと主張していたわけではないのです。彼らは特権階級で現世で利益を得ており、この世の生活を充実させる事しか考えず、この世の人生を越えたところまで働く神の力を理解しようとしなかったからでした。

私たちは全能の神と救い主イエスを信じ、あるいは信じたいと願ってますが、いつの間にか地上での事ばかり考え願うようになってないでしょうか。神は生きている者の神であり、主にあって死ぬ者も復活のいのちをいただくのです。


2024年4月14日

カエサルのものはカエサルに

マルコ12章13-17節

 

主イエスのたとえ話(12章前半)で自分たちの事を指摘された祭司長、律法学者たちは、主イエスの言葉尻をとらえるためにパリサイ人とヘロデ党の者を数人遣わしました。そして、主イエスが人の顔色を窺わずに正しいことを教えていると持ち上げた後で、税金を払うことは律法にかなうかと質問させました。

この頃ローマに納める税金、特に人頭税はユダヤ人にとって最も屈辱的な税金だったようで、この問いはどう答えてもパリサイ人かヘロデ党のどちらかから責められ、民衆の支持を失うようなものでした。

それに対して主イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と答えて驚かせます。ユダヤ人がローマ帝国の支配は不満であっても、貨幣を筆頭にローマの法律やインフラによって支えられている事実を思い起こさせました。同時に、すべては神のものなので、自分自身の人生や生き方を神にささげたものとするようにと勧められたのです。「返す」のです。

私たちは、自分が人生の主人となって生きようとしますが、自分のいのちや人生は神に与えられたものであり、本当の主人は神なのだと認める事が大切です。日常生活と信仰を分けた生き方ではなく、それを一つにするようにと主イエスは語られるのです。


2024年4月7日

主が成し遂げてくださる

詩篇37章1-9節

 

2024年度の宇治福音自由教会のみことばを祈る中で、この詩篇37篇5節に導かれました。37篇は、悪者が栄える現実に語られたもので、その中に5節があります。

その中で腹を立てるな、と3度も語られます。義憤は必要ですが、私の怒りが純粋なものなのか、怒りがもたら

すものが何なのか、考えよと言われます。

悪に怒るのではなく、地上で神を信じる生き方の結実として主を信頼し、善を行なうように勧められます。その次に5節があり、主に委ね、主を信頼するようにと勧められます。善を行う事と、待つこと、それを主は求められるのです。

そうすれば、私たちではなく主ご自身が、物事を成し遂げて下さいます。願いをかなえて下さるという約束です。私たちの義など取るに足りないのに、それを真昼の太陽のように輝かせて下さいます。そして地を受け継ぎ神の祝福を十分に受けると約束して下さるのです。

私たちは今年度、主がみわざを成し遂げられるまで、積極的に期待して信頼して待ちたいと思います。

主よ、そのような信仰を私たちに与えて下さい。


2024年3月31日

神に捨てられてまで

マタイ27章45-56節

 

十字架につけられ、群衆や祭司長たちや同じ十字架につけられた犯罪人にまでののしられた主イエス。12時から15時まで全地が闇に覆われた後で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と大声で叫ばれました。本来神に見捨てられるべき罪人である私たちの代わりに、絶対に見捨てられるはずのない神の子が見捨てられた者となって罰を受けてくださったのです。それで私たちは、その救い主を信じるなら救われるのです。

主イエスが最後にもう一度大声をあげて息を引き取られると、多くの奇跡が起こりました。神殿の幕が突然裂け、地が揺れ動き、岩が裂け、死人が生き返りました。その様子を見ていた百人隊長が、非常に恐れながら

「この方は本当に神の子であった」と告白します。それらの奇跡に遭遇したからだけでなく、息を引き取るまでの主イエスの姿に、ただの人ではない、まさに神の子としての力や品性を感じたのでしょう。

私たちは、自分こそが神に捨てられるべき罪深い存在であることを知り、その私のために死んでくださった方を

「この方こそ神の子である」と告白して、生きていきたいと願います。


2024年3月24日

神に捨てられてまで

マタイ27章45-56節

 

十字架につけられ、群衆や祭司長たちや同じ十字架につけられた犯罪人にまでののしられた主イエス。12時から15時まで全地が闇に覆われた後で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と大声で叫ばれました。本来神に見捨てられるべき罪人である私たちの代わりに、絶対に見捨てられるはずのない神の子が見捨てられた者となって罰を受けてくださったのです。それで私たちは、その救い主を信じるなら救われるのです。

主イエスが最後にもう一度大声をあげて息を引き取られると、多くの奇跡が起こりました。神殿の幕が突然裂け、地が揺れ動き、岩が裂け、死人が生き返りました。

その様子を見ていた百人隊長が、非常に恐れながら「この方は本当に神の子であった」と告白します。それらの奇跡に遭遇したからだけでなく、息を引き取るまでの主イエスの姿に、ただの人ではない、まさに神の子としての力や品性を感じたのでしょう。

私たちは、自分こそが神に捨てられるべき罪深い存在であることを知り、その私のために死んでくださった方を「この方こそ神の子である」と告白して、生きていきたいと願います。


2024年3月17日

ののしられても

マタイ27章27-44節

 

主イエスの受難は4つの福音書すべてに記録されていますが、不思議なことにむち打ちや十字架刑の苦しさとむごたらしさはほとんど書かれていません。それは、受難の中心が肉体的な苦しみではないからです。

今日の箇所で何度も出てくるのが、からかった、ののしった、嘲あざけったという言葉です。兵士たちは王服のようなマントを着せ、茨の冠をかぶらせ、葦の棒を持たせた主イエスの前にふざけてひれ伏し、唾をかけ頭をたたきました。

通りがかりの人も、祭司長・律法学者・長老たちも、さらには一緒に十字架につけられた強盗たちですら、主イエスをののしり、嘲りました。「他人を救っても自分を救えないのが、本当に神の子なのか」という嘲りです。主イエスが他人を救っていることを知りながら、その愛と奇跡に触れながら、神の子であることを信じない罪深さ。主イエスは、その彼らのために、一言も言い返さずに十字架にかかり続けられました。

主イエスが十字架で私たちの身代わりとなって下さったがゆえに、私たちは救われるのです。


2024年3月10日

ぶどう園のたとえ

マルコ12章1-12節

 

この例えは、主イエスが祭司長、律法学者、長老たちと論争する中で語られたものです。彼らがイスラエルの民を正しく導いていない、ということを指摘しました。

主人は神様、ぶどう園はイスラエルの民、農夫が彼ら指導者たち、しもべは預言者たち、息子は主イエスです。彼らは神が遣わされた預言者を、事もあろうに迫害してきたのです。そして、神の子である主イエスも殺そうとしている(実際にこの後十字架で殺す)のです。

イスラエルはこの後、ローマ帝国によってエルサレムを陥落させられ、殺され、他の民族のものとなります。この例えの通りのことが起こってしまいます。

このたとえは、指導者たちが少しでも自分の姿に気づいて悔い改められるように語られたのですが、彼らは認めませんでした。主イエスは、悔い改めるなら常に受け入れて下さるのに、彼らは悔い改めなかったのです。

私たちも、このぶどう園の一人です。収穫を神にお返ししたいと思います。神が整えて下さったこと、備えられ与えられたものを感謝し、豊かな実を結びたいと願います。それは、十字架にかかった救い主である主イエスが、実現させてくださいます。


2024年3月3日

私たちは挑戦できる

マタイ25章14-30節

 

先週のメッセージは「思い煩うな」というテーマでしたが、最後に「もっと素晴らしいものがある」と予告しました。それが、挑戦して祝福されるという生き方です。

主イエスは、主人に莫大な財産を預けられたしもべたちの例えを話されました。今で言えば億単位のお金を預かり、主人が帰るまでに倍に増やしたという話でした。たとえ長期間だったとしても、リスクを取って商売をし、それを誠実に続けないと倍には増えないはずです。

しかし一人はリスクを取ることを恐れ、地面に埋めておいたと言います。それは「安全」だったかもしれませんが、結果的に全く利益を産まないどころか、物価が上がれば目減りしたはずです。しもべたちの主人は、帰って来て清算した際に、それを責めました。

私たちも、必要以上に安全を求め、失敗を恐れ、リスクを負わないことを最優先にするような生き方になることがあります。「無事終わりますように」という言い方は象徴的です。

しかし、神を信じる者にはハッピーエンドが約束されているのですから、失敗を恐れて「安全」な道を選ぶだけでなく、チャレンジすることができるのです。趣味も、仕事も、奉仕も、そして会堂建設も、主にあってワクワクしながらチャレンジして行きましょう。


2024年2月25日

思い煩うな

ピリピ4章6-7節

 

  ニュースを伝えるメディアは事件を伝え、様々な会社は私たちの不安を煽るようにしてサービスや商品を購入させようとします。生活必需品の次に私たちが切実に求めるのが、不安の解消だからです。 

私たちの不安に対して、神様は聖書を通して「一切思い煩うな」と命じられます。思い煩ってよいことなど一つもない。そしてそれは「命令」なので、私たちの気持ちを脇に置いて従うべきです。さらに心配事ではなく感謝で心を満たし、心配なことは祈りで神に伝えて任せてしまう。祈りは気休めではなく、本当に私たちの必要を神にお伝えし、お任せするためにとても大切な営みなのです。 

そうすれば、どんな知恵や知識をも超えた神の平安が私たちの心も思いも守って下さると言われます。不思議に説明のしようのない平安が与えられ、心を満たしてくれます。それは、何とか無事に過ごせればいいという消極的な生き方ではなく、神と共に充実した人生を生きるという積極的なレベルにまで私たちを引き上げてくれます。私たちは大胆に自分の賜物を活かし、喜んで生きていけるのです 

先の見えない不安な時代に、神を信じる事がどれほど安心で幸せなことなのか、体感していただきたいと心から願っています。 


2024年2月18日

何の権威で

マルコ11章27-33節

 

 宮きよめの出来事から、主イエスをどうしたら殺せるかと相談し始めた祭司長や律法学者たちが取った手段は、主イエスへの信頼や人気をなくすことでした。主イエスに宮で難しい質問を投げかけ、それに答えられない姿を群衆にさらしたいと考えたのでしょう。 

主イエスは、逆に「ヨハネのバプテスマは天からか人からか、どちらから出たのか」と質問することで切り抜けられました。これは単なる鋭い切り返しではなく、神のわざを素直に認めるよう考えさせるためでもありました。 

しかし祭司長たちは、答えによって自分たちの立場が危うくならないようにという判断を優先し、答えない事を選択しました。本来なら、天からの権威には従い人からの権威には従わないという姿勢を貫くべき人たちが、「分かりません」という答えによって自分の権威を守ろうとしたのです。 

私たちも、自分の権威や利益を失うことを恐れて、神に従わないということがあるのではないでしょうか。自分の権威を脅かしたり、変わるように促す声に耳を閉ざして、「分かりません」と逃げるなら、主イエスの事が本当に分からなくなります。 

主よ、あなたを信じ権威に従う者として下さい。 


2024年2月11日

自由を得させるために

ガラテヤ5章1節

 

このガラテヤ書の内容は、直接的には律法主義(律法を守ることによって神に喜ばれ、救われるという発想)に対する「自由」が語られています。

私たちは、自分の行いによっては救われません。神の基準に達する生き方はできないのです。だからこそ、罪深い私たちの身代わりに死んで下さった主イエスのゆえに、信じるならば救われるという福音を信じるのです。

そのように主を信じて救われたはずなのに、なぜまた良い生き方によって救われるという発想、律法主義の奴隷状態にいつの間にか戻ってしまうのか。それは残念ながらそちらの方が罪人にはしっくりくるからで、律法主義は根深いのです。

また、信教の自由という事を考えると、敗戦まで日本では天皇を神として拝み、絶対服従するよう強制されました。それは過去の事ではなく、「建国記念の日」もその復活の一つです。法律も、意識しないうちにどんどん変えられてきています。

再び奴隷のくびきを負わされないように、目を覚まして国の動向にも関心を持ち、少しでも正しい方向に進むように意識し、祈る者でありたいと願います。政治や日常生活にも、主の主権があらわされますように。


2024年2月4日

祈りを励ます

マルコ11章12-25節

 

 この箇所からのお話は今日で2回目ですが、同じ個所を「祈りを励ます」というテーマを教えられます。 

主イエスが前日に呪われたいちじくの木が、翌朝早く根元から枯れていたことで、弟子たちが驚きました。しかし主は驚くに足りないと、「神を信じるなら、山が動いて海に入る」と教えられました。普通、山は動きません。私たちの毎日にも、立ちふさがり、歩みを邪魔し、前に進めなくする障害があります。いろんな問題。乗り越えられない苦しみや悲しみ。克服できない罪。そのような山が、祈りによって動くと言われます。神を信じるなら、神が動かして下さるのです。だから、祈った事はすでに得たと信じなさいと励まされるのです。 

また、祈る時に人を赦すなら、あなたも赦されるといわれます。恨みや怒りという山を神が動かして下さるので、私たちが人を赦すという事が可能になります。神が私たちの罪を十字架によって赦して下さるという恵みを味わう中で、私たちは人を赦せるように変えられて行きます。それは、祈りの中で神との交わりに生きる中で、味わえるのです。 


2024年1月28日

神の愛の証し

ローマ5章6-8節

 

ローマ人への手紙は、キリストを信じる信仰について整理して教えています。今日の箇所は、キリストが十字架によって死なれたことによって私たちが救われること、そしてそれこそが神の愛の証明だと語っています。

キリストが十字架にかかって死なれたのは、私たちを救うためでした。その私たちがどんな人間だったかと言うと、弱かったと書かれています。これは自分の力では救われることができない、無力な存在という事です。また不敬虔な者とは、神の権威に逆らっている者です。そして神の前に罪を犯している罪人でした。

人間の常識では、善良な人のためなら死ぬ人もいるかも知れません。でも、正しくても冷たい人のために死ぬ人はいないでしょう。まして罪人のために死ぬ人などいないのです。しかしキリストは、私たちが罪人であったときに、その私たちのために十字架にかかって身代わりとなって死なれたのです。キリストが身代わりとなって下さったゆえに、私たちは信じるなら救われるのです。

そしてそれは父なる神の愛の証明でもありました。私たちのためにひとり子を犠牲にするほどの、想像を越えた愛です。神は私たちが生まれる前から、救いを定めておられたのです。


2024年1月21日

真の礼拝をささげる

 マルコ11章12-25節

 

 今日の箇所の前半は、主イエスがいちじくの木をのろうという珍しいエピソードが紹介されています。これは食べられなかった腹いせをぶつけたのではなく、当然実らせるべき実を結んでいないイスラエルの民の姿を重ねておられるのです。当然ささげるべき真の礼拝をささげていない姿です。

あらゆる民の祈りの家となるべき場所が、強盗の巣になっていると主イエスは言われました。そこは異邦人の庭という場所で、異邦人がそこまでしか入れず、そこで礼拝をしていた場所でした。そこがユダヤ人の礼拝準備のために、商売の場所に成り下がっていたのです。礼拝のために必要とは言え、両替えやいけにえを売る商売をしている人たちで一杯でした。祭司の店もあったと言われます。ユダヤ人が「正しい」礼拝をささげるために、異邦人の礼拝が犠牲になっていたのです。「正しい」礼拝を求める思いの内にすら、他者を省みない強盗のような貪欲があると主イエスは指摘されたのです。 

私たちの礼拝は、どのような礼拝となっているでしょうか。貪欲ではなく、自分をささげる礼拝となりますように。 


2024年1月14日

主は救い出してくださる

マルコ11章1-11節

 

 マルコの福音書は11章から、エルサレムでの主の受難の場面に入って行きます。そのエルサレムへの入城は、王としてのものでした。 

弟子が子ろばを借りる時に、「主がお入り用です」と言わせてあえて主と呼ばせたこと。ろばに乗り入城され、人々が上着や枝を敷いた道を進まれたこと。「ホサナ」から始まる人々の叫びを受け入れられたこと。そのすべてが王として、救い主として来られたことを表していました。 

主イエスと共にエルサレムに入城した人たちは、ホサナ、私たちを救って下さいと叫びました。しかしその人たちが、後で主イエスを十字架につけろと叫ぶのです。本当の意味では、主イエスを迎えていなかったのです。ゼカリヤ書9章9-10節の預言の成就であることが分かっていなかったのです。武力で勝利する救い主ではなく、平和をもたらす救い主であることを理解できなかったのです。 

主イエスは、へりくだった王として、ご自分のいのちを十字架で捨てるために来られました。この方を私たちの心にお迎えし、救いを受け、平和の君として治めていただきましょう。 


2024年1月7日

王として来られた主

マルコ11章1-11節

 

 マルコの福音書は11章から、エルサレムでの主の受難の場面に入って行きます。そのエルサレムへの入城は、王としてのものでした。 

弟子が子ろばを借りる時に、「主がお入り用です」と言わせてあえて主と呼ばせたこと。ろばに乗り入城され、人々が上着や枝を敷いた道を進まれたこと。「ホサナ」から始まる人々の叫びを受け入れられたこと。そのすべてが王として、救い主として来られたことを表していました。 

主イエスと共にエルサレムに入城した人たちは、ホサナ、私たちを救って下さいと叫びました。しかしその人たちが、後で主イエスを十字架につけろと叫ぶのです。本当の意味では、主イエスを迎えていなかったのです。ゼカリヤ書9章9-10節の預言の成就であることが分かっていなかったのです。武力で勝利する救い主ではなく、平和をもたらす救い主であることを理解できなかったのです。 

主イエスは、へりくだった王として、ご自分のいのちを十字架で捨てるために来られました。この方を私たちの心にお迎えし、救いを受け、平和の君として治めていただきましょう。