礼拝説教 要約と音声


礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。

2023年12月31日

良くしてくださる方

詩篇119篇65―72節

 

 詩篇119篇はヘブル語のいろは歌で、176節もある最長の詩篇としても有名です。その中で65-72節は、「良い」という事が主題です。 

まず、主が良いお方であるという事です。過去も、今も、これからも、私たちに良いことを行なって下さるのです。 

また、試練にも実際に良い面があります。試練を経験した人だけが得られる、神様とみことばの真実さの実感、確信があります。 

だからこそ、神のみことば、神のみおしえは価値があります。お金に代えがたい、どんなお金持ちになるよりも値打ちがあるのが、神のみことばなのです。それは試練を通して、神が教えて下さる事によって私たちのものになります。 

いま私たちの会堂建設も、試練を経験していると言えるでしょう。半年も礼拝堂がないというだけで大変なのに、その期間が4か月も延びます。自治会の一部の方からの意見もあります。そういう時に、短絡的に「みこころでなかったのでは?」と動揺せず、みことばに照らして考える必要があります。 

会堂建設期間が、主が良い方であることを私たちひとりひとりが経験する、貴重な機会となりますように。  


2023年12月17日

主に叫ぶ

マルコ10章46―52節

 

 主イエスが十字架にかかるためにエルサレムに向かう道中、最後の町エリコを出る時にバルティマイという目の見えない物乞いが「救い主イエス様、私をあわれんでください」と叫びました。多くの人は、それを黙らせようとたしなめましたが、彼はますます叫びます。 

主イエスがそれを聞き、彼を呼んで来なさいと命じられると、一転して群衆は彼を呼びます。その時バルティマイは躍り上がって主イエスの所に来たと書かれています。なぜここまで、一度もあった事がないはずの主イエスが自分を癒やせると信じられたのでしょうか。 

主イエスは、あなたの信仰があなたを救ったと語り、彼を癒やされます。彼を癒やしたのは主イエスの力なのに、主イエスは「あなたの信仰が」と言われるのです。確かに主イエスは、彼の信仰に答えて癒やされました。主イエスは信仰に答えて、御業を行なって下さる方なのです。 

私たちは、バルティマイほど真剣に、必死に祈り求めているだろうかと考えさせられます。自分の事、大切な人たちの事、教会の事、新会堂の事、社会の事など、人にたしなめられるくらい、切実に求める者となりたいと願います。 


2023年12月10日

主が来られるまで

第1コリント11章23-29節

 

今日は会堂建設開始後の最初の合同礼拝で、聖餐式も行います。なぜ集まって聖餐式を行うのか。それは、主イエスが命じられ、2000年間クリスチャンが守り続けてきたからであり、十字架の救いを思い起こすためです。 

十字架にかけられる前の晩、最後の晩餐の席上で、主イエスは聖餐を定められました。まずパンを裂き、その裂かれたパンがこれから裂かれるご自身の体であると語られました。主の十字架を思い起こして、パンを裂き、それを食べるようにと語られたのです。 

また杯は十字架で流される血によって新しい契約がなされる事の象徴でした。律法を守ることによってではなく、ただ恵みにより、信仰によって救われるという新しい契約です。十字架で血が流されたことを思い起こして、それを飲むように語られました。 

私たちは、主イエスの救いを受けたのに、その素晴らしさを忘れ、まだ救われてないかのような、自力で救いを得ようとするような生き方をしがちです。しかし、聖餐にあずかり、救いをもたらす十字架を伝えることで、この恵みを心に刻み、再確認できるのです。 

聖餐式の恵みに感謝します。 


2023年12月3日

約束を信じて

イザヤ書9章1-2、6-7節

 

 預言者イザヤが活躍したのは、紀元前700年前後で、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされる頃、イスラエルの民が大きな試練と苦しみの中にあった時代です。 

その中で、イザヤは、目に見える現実だけが現実なのではなく、神の約束が実現するという現実を見るようにと励ましました。苦難の闇がなくなり、希望の光が輝く。試練のただ中でも希望を持つことができると言うのです。 

その根拠は、神の約束です。 

救い主が生まれるという約束。その救い主は、完全な王として、愛と正義と平和をもって治めるようになります。神が祝福を与えると約束されたダビデの後継として、永遠に治めるのです。イスラエルの民は、その約束が実現するのを待ち続けました。そして2000年前に主イエスが生まれた時、クリスマスに一部実現しました。そして、主イエスが再び来られる時に、完全に実現するのです。 

アドベントの季節、再び来られる主イエスを待ち望む思いで、今の現実の中で約束を信じてクリスマスを待ち、新会堂の完成も待ちたいと願います。 


2023年11月26日

依存からの自由

ガラテヤ5章1,13,16,22節

 

 主イエスを自分の救い主として信じることは、さまざまな救いをもたらしますが、その一つが「自由」です。キリスト教や聖書は、決して堅苦しい枠にはめるものではなく、逆に自由にされます。特に罪の奴隷状態から解放されて自由にされるのですが、そのためには罪に縛られていたことに気づくことが必要です。また、与えられた自由を再び罪を犯す口実にしないという事が大切です。 

この自由を自分のものにして行くには、私たちの頑張りで達成するのではなく、御霊によって歩むことで可能になります。いつも御霊の導きを求め、御霊の導きや促しに敏感になり、導きを感じたらすぐに従うということを積み重ねて行くのです。 

特に、同調圧力の強い日本ではキリストを信じる事への抵抗が強いかも知れません。だからこそ、この自由を一人でも多くの人に味わっていただきたいと切に願います。 


2023年11月19日

いのちを与えるために

マルコ10章32-45節

 

  主イエスが三度目の受難予告をされました。エルサエムに向かう主イエスのただならぬ雰囲気に恐れた弟子たちに、その理由を語られたのでしょう。前の2回とは比べ物にならないくらい詳しい内容でした。 

その恐ろしい予告を聞いたのに、12弟子のうちの二人、ヤコブとヨハネの関心は自分たちが偉くなりたいという野心でした。しかも、それを聞いて腹を立てたことからすると、他の10人も似たり寄ったりです。その弟子たちに、主イエスは思い違いを正されました。 

本当に偉いのは、人に仕える事だ。そして、主イエスご自身が使えられるためではなく仕えるために来られたのだと語られたのです。先生が仕えるなら、弟子はなおさら仕える者となるべきです。先生が模範を示して下さったので、模範に倣うべきであり、模範があるから近づけるのです。しかもそれが、いのちを与える働きにあずかる事でもある。 

私たちも、主イエスの助けによって、しもべとしての姿勢に倣うことができますように。 


2023年11月12日

神にはできる

マルコ10章23-31節

 

「神にはできる」と聞くと励まされます。しかし、ここで語られているのは、神が奇跡的な働きをして下さるという事ではなく、人を救われるという事でした。 

金持ちが救われるより、ラクダが針の穴を通る方が易しいと言われました。金持ちの方が何でも有利なはずですが、その金持ちよりと言われて、弟子たちは「それではだれが救われるでしょう」と心配になります。富を持っているということだけでなく、人間が自分の力や功績で救われようとするのが無理だという意味だったからです。 

しかし人間には不可能なことでも、神にはどんなことでもできると言われます。そうです。神にはできるのです。 

そこでペテロが自分たちはすべてを捨てて主イエスに従ったと訴えます。主イエスは、神と福音のために捨てた者は、迫害と共にその100倍を受け、永遠のいのちを得ると約束されました。地上の何かを捨てて私たちが貧しくなるのではなく、逆に豊かに与えられていく。神の家族が与えられていく。それが「捨てた」者、この世のものや実績にしがみつかない者への神の祝福なのです。 


2023年11月5日

主のわざを見よ

イザヤ書43章19節

 

 今月から旧会堂の解体工事が始まり、今日からふじい整骨院2階での対面礼拝と、オンライン礼拝になりました。新しいことが始まり、このみことばを思わされました。 

イザヤを通して神が、出エジプトの力強い御業を思い起こさせました。先週の礼拝で語られたように、過去の出来事を通して、私たちは教えられ、励まされます。しかし、私たちは過去に縛られてはいけないとも語られます。 

出エジプトの御業はとてつもないスケールの奇跡でした。しかし神の御業はいつも、過去のどのように偉大な奇跡とも違う「新しいこと」なのです。神はその「新しいこと」を行う、しかも今もうそれが芽生えている、と語られます。過去の偉大な経験によって、神がなされる御業を狭く受け取ることがないように、と語られるのです。 

荒野という道なき地に、道を造る。水などない荒れ地に、湧き水どころか川を流れさせる。それはもしかしたら、あの出エジプトの奇跡よりも小さいと感じるかも知れません。しかし神は、私たちのために「新しいこと」を行って下さいます。 

新会堂建設も、その「新しいこと」を楽しみに進ませていただきましょう。 


2023年10月29日

羊飼いなる神

創世記48章15-16節

 

現会堂が与えられ31年間豊かに用いられてきたことを感謝し、「ずっと私の羊飼いであられた神よ」のお言葉を思わされました。この箇所はヤコブが臨終前にヨセフの二人の息子を祝福して祈る場面です。 

ヤコブは今までの祝福を振り返り、子孫の祝福を祈ります。ヤコブの祖父アブラハムも父イサクも、欠点や失敗がいろいろありましたが、神の御前を歩んだゆえに祝福されました。ヤコブも祝福を振り返り神を呼んだ言葉が「ずっと私の羊飼いであられた神よ」でした。神が羊飼いとなって下さる恵みを深くかみしめていたでしょう。私たちも現会堂を通して与えられた恵みを思わされます。 

次にこれからの祝福を祈りました。自分が守られ、祝福されてきたように、子どもたちも守られ、祝福を受け継ぎ、豊かに増えますようにと祈るのです。「私を祝福して下さい」と神と格闘したヤコブが、次の世代の祝福を祈るのです。私たちも、新しい会堂を建てますが、それは私を祝福して下さいと言う祈りだけでなく、私の子どもたち、これから救われる方々を祝福して下さいと祈りながら建てるのです。 

神の御前を歩み続け、神が私の羊飼いでいて下さるという恵みを次の世代が受け継ぐために。  


2023年10月22日

子どもを祝福する

マルコ10章13-16節

 

今日の箇所は子どもが出てくる有名な場面です。子どもが幸せになるように祈っていただこうと連れて来た人たちを、主イエスの弟子たちが叱ったのですが、その弟子を主イエスが叱られました。それは、子どものような人が神の祝福を受けられるからだと言われたのです。 

子どもは、まだ小さいですから力も知恵も足りません。弱い立場と言えるでしょう。だからこそ変なプライドなく素直に人に頼り信頼し、善意を受け取り、計算せず善意を返します。神の祝福はそんな人に与えられるのです。 

また、子どものように素直に、しがらみや計算ではなく神を信じ、救いのメッセージを受け入れる人が、救いを受け取り天国に行けるのです。それを考えると、子どもを連れてきたつもりだったのが、大人の方が子どもの心を思い出す必要があると気づかされます。 

大人になって賢くなり、計算もできるようになったかも知れません。でも本当に大切なことが分からなくなっているということがないでしょうか。子どものように神の国を受け入れたいと願います。 


2023年10月15日

それをここに持って来なさい

マタイ14章13-21節

 

日本伝道会議で教えられたことの二つ目が、この「それを、ここに持って来なさい」のみことばでした。 

領主ヘロデが主イエスのうわさを聞いてバプテスマのヨハネが生き返ったと言ってるのを知り、主イエスは人目を避けて静かな所に逃れようとされました。そこにも群衆が集まって来たのを見て深くあわれんで、病をいやされました。そして食べ物をあげようとされます。 

最初は弟子たちに「あながたがが食べ物をあげなさい」と言われました。驚いた弟子たちが「5つのパンと2匹の魚しかありません。」と答えると、祈ってそのパンを裂いて弟子たちに渡して配らせました。すると、不思議にも全ての人が食べて満腹し、12かごにいっぱいのあまりまで出たのです。少ない手持ちから計算する弟子たちに、それを主の元に持って来なさいと命じ、その少ないちっぽけなものを驚くほど大きく用いて下さったのです。 

私たちも自分が持っているもの、賜物(才能)やお金などがちっぽけすぎると感じることがあるでしょう。しかし主は「他からの借り物ではなくそれを、私の所に持って来なさい」と言われるのです。持って行きましょう。 


2023年10月8日

永遠の命を得るには

マルコ10章17-22節

 

今日の箇所では、恵まれた境遇にいながら真面目に生きて、なおも正しい生き方を模索する青年が出てきます。彼の熱心さは、駆け寄ってひざまずく様子にあらわれています。 

主イエスはしかし、何を「する」かは知っているはずだと答えて、十戒を教えます。青年はそれを「少年のころからすべて守って来た」と答えます。真面目に戒律を守って生きてきた自負があるのでしょう。しかし、それでも満たされないものがあるから主イエスに求めたのです。 

彼が間違ってたのは考え方でした。彼は何を「したら」よいでしょうかと聞きました。律法を外面的に守ることだけを考え、心の中の事は考えてなかったのです。ですから、「すべて守って来ました」と答えられたのです。 

本来私たち人間は、神が求められる基準には応えられません。救いは自分の努力で獲得できるものではなく、ふさわしくない者に与えられる恵みなのだと知り、求める必要があるのです。 

悲しみながら主イエスの元を去るのではなく、救いを喜んで主イエスと共に生きる者となれますように。 


2023年10月1日

居心地悪さを越えて

使徒2章37-47節、6章1-7節

 

 9/19-22と岐阜市で持たれた日本伝道会議に出席し、多くの恵みをいただきました。教えられたことの一つ目が、この「居心地の悪さ」(不快)でした。 

2000年前にエルサレムで聖霊が人々に下った時、「御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始め」ました(使徒2:4)。世界のあらゆる言語や文化を越えて一つとされる教会の姿の先取りでした。2:43-47には3回も「一つ」という言葉が出てきます。 

しかしそれは、トラブルの元ともなりました。例えば、ギリシャ語を使うユダヤ人からヘブル語を使うユダヤ人に、言葉による差別(少なくとも情報が届かない)という苦情が出ます。人間は、自分と異なる人々と共にいることに不快感を感じます。神が導かれた人同士で、トラブルになる可能性があるのです。 

私たちは、その居心地の悪さを避けるのではなく、神が与えられたものとして、居心地の悪さを前提として人と付き合う必要があります。一つの教会に集うという事はまさにそういう事であり、いろんな教会が協力するという事もそうなのです。 

居心地のいい相手とだけ交わるのではなく、居心地の悪さを越えて交わりが深まりますように。 


2023年9月24日

天国に行くには

ヨハネの福音書14章1-6節

 

 この聖書の箇所は、主イエスが天国に行く道について教えている有名な箇所です。直前の対話で、主イエスがすぐにでもどこかに行ってしまわれそうな話をされ、意味がよく分からないので弟子たちの心は混乱していました。その弟子たちに、心を騒がせずただ信じなさいと言われたのです。 

主イエスは、天国に場所を備えに行き、迎えに来て下さること。そこに行く道は弟子たちも知っている。と説明されましたが、それでも分からずトマスという弟子が「道が分かりません」と答えます。それに対して、主イエスご自身が真理を教え、いのちを与え、天国に導く道であると教えられました。主イエスを知ることが天国への道、主イエスを信じることが天国への道なのです。 

先に天国に行かれた方たちをしのびつつ、私たちも主イエスという道を通って天国へ行き、懐かしい方々と再会する事を楽しみに生きられますように。 


2023年9月17日

神の祝福がありますように

民数記6章22-27節

 

この民数記の箇所は、神がイスラエルの民をしゅkく服 された有名なことばです。今年の敬老ジョイフル礼拝で は、この祝福の言葉を年長の方々のために祈ります。 神の祝福がありますように。祝福を妨げる悪いものや 状況から守られますように。 神の御顔の光が照らし、神のあわれみや救いを受け、 喜びが湧きますように。受けるにふさわしくない私たちに も届きますように。 神の御顔が向けられ、神に愛されていることを知り、 神を敬えますように。そこに本当の平安があり、人生が 充実しますように。 この祈りは、高齢という弱さの中でどのように実現す るのでしょうか。土の器に例えられる弱い肉体だからこ そ、その中に測り知れない神の力が与えられたら分かる。 肉体が衰えて行っても、心が、精神が、信仰が日々新た にされていく。なんという恵みでしょうか。 この祝福を受け取っていただきたいと切に祈ります。 


2023年9月10日

神が結び合わせる

マルコの福音書10章1-12節

 

 主イエスがユダヤ地方に行かれても、群衆が集まって来たので彼らを教えます。そこにまたパリサイ人が来て、主イエスを困らせるために、夫が妻を離縁することが正しいかという質問をしました。主イエスは、モーセはなんと命じたか尋ね、パリサイ人はモーセは離縁することを許したと答えます。夫の権利であるという理解です。 

しかし主イエスは、モーセではなく創造の時まで遡って説明されます。結婚は神が人間の幸せのために定められたものであり、人間がそれを破ってはいけない。人間のかたくなさのゆえに、仕方なく離婚を許されたのだ。と言われます。 

神が結び合わせたものを人が引き離してはならない。結婚した男女が一体となり、互いに愛し合うことを求め、あきらめずに生きていくことを神は望んでおられるのです。 


2023年9月3日

神の国に入るには

マルコの福音書9章42-50節

 

 今日の箇所には、つまずかせるという言葉が何度も出てきます。これは、歩いている時につまずいて転ぶように、神様を信じる信仰の挫折を経験し、信仰を失う事です。それが非常に重大なことなので、誰かが人をつまずかせるくらいなら、つまずかせる側が海に投げ込まれた方がいいと言われます。 

また他人ではなく自分をつまずかせるものを持っているなら、手足や目のように大事であっても切り捨てた方がいいと言われます。五体満足で地獄に行くより、手足や目を失ってでも天国に入る方がいいのだと言われるのです。信仰者として、つまずかせない、天の御国に入る、真の命を得る事がどれほど大切かと教えられます。 

信仰者のあり方として別の角度から、塩気を保つようにとも教えられています。私たちは試練を通して本当に価値あることを学び、それが塩気として自然と他者への良い影響をおよぼします。私たちは自分の問題を解決していただいたり救いをいただくだけでなく、他の人を救いに導くために用いられるのです。共に神の国に入るために。 


2023年8月27日

悪に負けるな

 ローマ人への手紙12章17-21節

 

 8月は78年前の敗戦を思い出させ、また昨年からのウクライナでの戦争も常に心にあります。なぜ平和を願いながらも戦争が起こるのでしょうか。この聖書の箇所からは、悪に対して悪を返すこと、復讐が一つの理由であるとわかります。(もちろん人間の欲が原因でもありますが) 

相手が自分に対して悪いことをしてきたと受け取ると、多くの場合は相手に仕返しをすることを考えるでしょう。そして互いに仕返しする中でエスカレートして行き、争うが大きくなって行きます。 

聖書を通して神は、復讐や正しい裁きは神の役割なので、あなたは敵に善を行いなさいと命じられます。私たちが善を行う事で、敵に対する裁きが積み上がる。また悪に悪を返すことは、私たちが悪に負けることであり、善を行うことが悪に勝つことになるのだと言われるのです。 

正しく裁かれる神にお任せするのは、簡単ではありません。しかし神は、神を信じる者を、復讐する者から赦す者へと変えて下さるのです。 


2023年8月20日

神の心を愛する者へと変えられた

マタイの福音書5章17-20節

 

 5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。 

5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。 

5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。 

5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。 


2023年8月13日

味方は多い

マルコの福音書9章38-41節

 

 仲間というのは、尊いものです。しかし、仲間だけでと思いすぎると他の人を受け入れなくなり、特権意識が加わるとさらに排他的になります。この箇所の弟子たちもそうだったようです。 

主イエスの名前で悪霊を追い出していた人をやめさせようとした、理由は私たちについて来なかったからだと。この「私たち」に特権意識を感じます。それに対する主イエスの答えは、「やめさせてはいけません!」でした。 

主イエスの名前で奇跡を行った後で、主イエスを悪く言えるはずがない。反対しない人は味方だ。と言われるのです。なんという懐の広さでしょうか。この考えなら、味方はとても多くなります。 

さらにキリストに属する、つまりクリスチャンだという事で水を1杯飲ませてくれる人は、必ずその報いを神から受けると言われます。神を信じる者への小さな親切ですら、神に覚えられるのです。 

自ら敵を作らないようにしたいと、自戒を込めて考えさせられます。私たちの味方は多いのです。 


2023年8月6日

先頭に立ちたいなら

マルコの福音書9章30-37節

 

弟子たちが追い出せなかった霊を追い出された後、主イエスは2回目の受難予告を語られました。しかし弟子たちには理解できず、尋ねるのを恐れたとあります。恐れはいろんなコミュニケーションを妨げます。 

その受難予告が理解できないという状況で、彼らが何を話していたかというと、だれが一番偉いかという事でした。主イエスの予告を聞きながら、自分の事を考えているのです。 

その彼らに主イエスは、先頭に立ちたい人は、逆に後ろに行き、仕えなさいと言われました。これは、人より先になり上に立つ者になりたいという発想が間違っているという事です。真のリーダーは、自分が重要人物として扱われることを求めるのではなく、主イエスが自分の命を犠牲にして私たちを救って下さったように、仕える者となる必要があるのです。 

それは、私のために死んで下さった主イエスを知ることから可能になります。喜んで仕える者となれますように。 


2023年7月30日

信じる者と共にいて

ヨハネの福音書20章24-29節

 

24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 

25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。 

26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 

27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 

28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」 

29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」。 


2023年7月23日

心の渇きを癒やす方

ヨハネ4章1-15節

 

 熱中症なりそうな暑さの中では、水分補給が生命線です。現代はいつでも飲もうと思えば水が飲めますが、主イエスの時代には井戸から水を汲み上げなければ飲むことができませんでした。 

主イエスは旅の疲れで井戸の傍らに座っておられました。この旅でこの女性と出会うためにサマリアを通ったようです。そして彼女に「水をください」と頼まれました。助けを願う形で対話を始められたのです。 

その対話の中で、最初に水をくださいと言ったはずの主イエスが、逆に生ける水を与えると言われます。それはこの井戸から汲む水の事ではなく、心の中から湧き出てくるものだと言われるのです。 

彼女はその意味がすべて分かった訳ではないようでしたが、でもその特別な水が欲しいと感じました。それで、「私にもその水を下さい」と願ったのです。主イエスが下さるものが何なのか、全てを正確に理解できなくても、それが素晴らしいもので、私にはそれが必要だ、という事さえ分かればいいのです。 

あなたもぜひ、主イエスに願って下さい。 


2023年7月16日

主の御心なら

 ヤコブ4章13-17節

 

 新会堂の設計を話し合い決めていく際に、自分の意見をちゃんと伝えることと、自分の意見が通らなくても主に委ねる信仰を共有したいと願ってきました。これは、日常生活のすべての領域にも適用すべきことです。 

今日の箇所で、1年間ある場所で商売して儲けようと計画することが例に挙げられます。それ自体は決して悪いことではありませんが、そこには自分が本来明日をも知れない身であることを忘れている傲慢があります。自分の命を自ら支える事すらできない、はかない存在であることを忘れていると。 

そうではなく、「主の御心ならば、生きて、あれこれしよう」と考えるべきなのです。生かされていることも主の御心、何かをする力が与えられているのも主の御心なのです。それが本当に分かれば、何かにこだわったり執着したりすることから解放されます。禅が教える無の境地とは違う、全能の神の愛の計画を信じる平安です。 

それは自己中心な誇りとは無縁ですし、逆になすべきことをしっかりと行うことができます。そのように神にゆだねる心の安心を常に持ち、喜んでみこころを行いたいと願います。 


2023年7月9日

祈りによらなけれ

マルコ9章14-29節

 

 主イエスの栄光を目撃した高い山の上から降りて他の弟子たちの所に戻ると、別の騒動が起こっていました。残った弟子たちは、連れて来られた子どもから汚れた霊を追い出せず、律法学者と議論になっていたのです。 

それは、祈りが違っていたからだと想像できます。以前(6章)は、神様の働きに用いてくださいと祈っていたのに、今回は私が追い出すのに力を貸して下さいという祈りになってしまっていたのではないでしょうか。私たちは自分に力があるのではなく、神の働きに用いられる時に力が与えられるのです。 

父親の「信じます。不信仰な私をお助け下さい」という告白を引き出して、主イエスは汚れた霊に出て行けと命じられます。言葉だけで霊は出て行ったのです。 

私たちの祈りも、私がこうしたいので力を貸して下さいと言う、私の働きを助けて下さいと言う祈りではなく、神の働きにあずからせてくださいと祈る時に、答えられて行きます。そのような祈りによって、神の働きを経験できるのです。 


2023年7月2日

聖書の通りに

マルコ9章9-13節

 

 変貌山での出来事の後、山を下りる時に主イエスは「人の子が死者の中からよみがえる時まで」見たことを他言しないように3人の弟子に伝えられました。彼らは、それがどういうことかを論じながら山を下ります。 

またそれに関連して、まずエリヤが来るはずという預言の意味を主イエスに尋ねました。主イエスは、エリヤがメシヤのための備えをするのだと答えられ、同時にエリヤがすでに来た事(バプテスマのヨハネがエリヤの再来としてその役割を果たしました)を教えられました。そして、再来のエリヤとしてのヨハネと、メシヤである主イエスの両方について、聖書に書かれたとおりに苦しみを受けることを預言されたのです。 

弟子たちは、主イエスをメシヤ(約束の救い主)と信じていましたが、聖書に書かれたことを理解できていませんでした。メシヤは王として君臨されるのではなく、苦しみを受けられるのだという事が分かっていませんでした。 

聖書が語っていることを知り、信じることができますように。