礼拝説教 要約


礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。

2022年12月25日

闇の中の光

ルカ1:26-2:14、ヨハネ1:5,9 

 

聖書は主イエスが生まれたクリスマスの出来事を、闇の中に光が輝くと表現しています。2000年前の出来事が現代の私たちに関係あるのでしょうか。

確かに、私たちが生活している世界は、闇と言える部分があります。コロナ感染やウクライナ侵略によって、行動が制限され、物価が上がっています。世界のどこかで起こったことが私たちの生活に大きな影響を及ぼします。これは、科学技術の発達とグローバル化が、闇を照らす光になれなかったことを示しています。

また、私たちの心の中にも、闇が存在します。立派な人間になりたいと思っても、そうなれない現実。愛するべき親しい人さえ愛せないどころか、妬みや憎しみを抱いてしまう現実。その事が私たちを苦しめます。それを聖書は罪と呼びます。

その闇の中に、主イエスが光として生まれ、輝いて照らして下さるのです。光が来た時点で、闇は闇でなくなります! 私たちの人生に、私たちの心に、光である主イエスを迎えるクリスマスとなりますように。


2022年12月18日

規則に縛られないで

 マルコ7章1-13節

 

今日の箇所でパリサイ人と律法学者が、イエスの弟子たちが手を洗わずにパンを食べているのを見て、言い伝えに従っていないと指摘しました 。 主イエスは、「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています」と答えられま した。

彼らの問題は第一に、神のみことばよりも自分たちの言い伝え(規則)を優先したことです。 十戒で明確に「父と母を敬え」と命じられているのに、神への献金という理由をつけ れば 親の面倒を見な くてい い と 言う 。それ は 神のみこころに背いている し、 他にも 同じようなことを たくさん 行っている と イエスは 言われました。 彼らは 神が本当に 願っておられる事 が 分からなくなってい た のです。

第二に、 一旦 自分たちが 決めた 決まりを 、 神の ことばであるかのように 、 一切 疑問も持たず 変更せずに 守り続けたということです。 人間が決めたことは 変えていいし、欠けに 気づいたら 変えるべきなのです。

私たちは、 変えてもいいことに 縛られてないでしょうか。聖霊に 気づかせていただいて、 ずれて いることは 変更し、神 のみこころを 大切に して行きたいと 願います。 そこに 自由と 幸いがあります。


2022年12月11日

イエスが語り掛ける

マルコ6章45-56節

 

5000人の給食の奇跡の直後、もう限界という状況だったからでしょうか、主イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸に先に行かせます。ご自分は一人山に登り、神に祈られました。

向かい風のために夜明け近くになっても目的地に到着できない弟子たちを見て、なぜか主イエスは湖の上を歩いて通り過ぎようとされます。それを見て幽霊と勘違いした弟子たちに、主イエスは「しっかりしなさい。わたしだ。恐れるな」と語り掛けられました。

主イエスが無理に舟に乗り込ませたのに、向かい風で目的地に全然到着しない。そういう事があったのです。神の御心を信じ、押し出されるようにして一歩進めたことが、うまく行かない場合があるのです。それはみこころではなかったのではなく、不思議な神の摂理で、主イエスの語り掛けを聞く経験と、そこから再び進み始めるという経験をするためなのかも知れません。

覚えておくべきことは、主イエスがちゃんと見ていて下さり、助けに来て下さり、声をかけて下さるということです。新しい年に向け、安心して、一歩踏み出しましょう。


2022年12月4日

イエスのあわれみによって

マルコ6章30-44節

 

新約聖書には、主イエスが少しのパンを祝福して裂いて配ると数千人の人が食べて満足したという奇跡が2回起こったと記されています。今日の箇所はその一つ目で、5つのパンと2ひきの魚から5000人が満腹しました。

きっかけは、弟子たちが奉仕に忙しく食事時間もとれなかったので、主イエスが少し休みなさいと舟に乗りこませたことでした。しかし、多くの人がそれを見つけて徒歩で先回りし、それを見た主イエスは彼らを深くあわれんで、再び教え始められたのでした。主イエスは、私たちが必死で求める時に答えて下さる方なのです。

時間が遅くなり、群衆の食事も心配になった弟子たちに、主イエスは「あなたがたがあの人たちに食べ物をあげなさい」と言われました。できるはずがないことをなぜ言われたのかと思います。実はそれが主イエスが奇跡を行う導入となっているのです。なすべきことが語られ、自分たちにはそれができないと主イエスに訴えたら、主イエスが助けて下さる。弟子たちは何もできないのに、主イエスと共にいることで、この素晴らしい奇跡を見ることができたのです。

私たちも、何もできなくても、主イエスと共にいることによって御業を見せていただき、励まされるのです。


2022年11月27日

喜びの前に

 マタイ1章18−25

 

クリスマスの 出来事は マタイとルカの福音書に詳しく 、マタイはヨセフ、ルカはマリアを中心に描かれています。しかも、単純な幸せな物語ではなく、波乱万丈です。

かねて ヨセフと 婚約中だったマリアが妊娠したことが分かりました (当時の婚約は現代の結婚に近い)。 どうやら マリアは ヨセフに詳しい話をしてな い ように思われます。マリアは 不倫する ような人ではないと信じつつも、どうしたらいいか思い悩んだヨセフは、マリアを さらし者にしないために ひそかに離縁しようと決心します。

その時ヨセフの夢に主の使いが現れて、 マリアが不倫してないことと、 恐れずにマリアを妻として迎え、生まれる子どもを自分の子として認知し、名をイエスとつけるようにとお告げを受けます。

ヨセフはそれでも悩んだと思いますが、夢で見た天使のお告げの通りにマリアを受け入れ、子どもを認知しました。あの素晴らしい主イエスのご降誕の前に、両親となるヨセフとマリアのこのような 苦しみ、試練があったのでした。

大きな祝福の前に、私たちは思わぬ試練を経験することがあります。生みの苦しみです。しかしそこに主の摂理が必ずあることを信頼して、祝福を待ちたいと願います。


2022年11月20日

私たちを救うため

 ローマ5章6-8節

 

宇治教会の目指すもの2は、「人が救われるところ」です。すべての人が招かれ、主イエスと出会い救われるのです。

私たちが救われるために、キリストが私たちの代わりに死んで下さいました。私たちが神を知らず、神を信じるどころか神に逆らう生き方をしていた時にです。

人間の愛ならば、正しい人のためでも死ぬ人はほとんどいません。正論を語っても愛がない、という人のために誰が死ねるでしょうか。また、善良な人のためなら、死んでもいいという人が少しは居るかも知れません。

しかし、主イエス・キリストは、罪人である私たちのために死なれました。本来救われる資格のない者、救われる価値のない者のために、いのちを捨てて下さったのです。神は資格を問題にされません。人の価値を正しさや能力ではかることもされません。「ただ存在していることが尊い。私はあなたを愛している。だからいのちを捨てるのだ。」と語り続けて下さり、実行して下さったのです。

これほど確かな愛の証しない!と聖書を通して神は語り掛けておられます。私たちの教会が、この神と出会い、救われる場となって行くように。私たち自身がこの救いをますます味わいましょう。


2022年11月13日

子どもを苛立たせない

 コロサイ3:21、ヤコブ1:19-21

 

聖書の中に、子どもにどのように接するのがいいか教えている個所があります 。 今日の箇所では子どもを苛立たせてはいけないと 言われ ます。その理由は、子どもが意欲を失わないようにするためです。

子どもは 意欲の塊です。ある程度の自我が芽生えてきたら、赤ちゃんでさえ「こうしたい」 という意思がはっきりしています。そんな子どもの意欲を失わせるのが、「苛立たせる」ことだと言うのです。

これは、子どものご機嫌を取りなさいということではありません。 20 節では先に子どもは両親に従うようにと命じられています。苛立たせない 秘訣は、「聞く」ことです。

子どもが本当に願っていることを、先入観なく聞く。その希望をかなえてあげられない場合は、聞いた上でノーと言えばいいのです。私たち 大人 は、自分 がどれほど 子どもの話を聞いてないか、自覚し ていません。

聞くには愛と忍耐が必要ですが、それは日常生活の中ですり減っ て行きます。自分の内に愛がないという事実を突きつけられる事があります。 これは対子どもに限った事ではありません。 その愛と忍耐は、主イエス様 が

下さいます。私のために命までささげて下さった愛を受け取り、愛に満たされて下さい。


2022年11月6日

二つの間違い

マルコ6節章14-29

 

主イエスが働きを始められてしばらくたち、「名が知れ渡ったので」、この地方を治めていたヘロデ王の耳にも入るほどになりました。その時にヘロデは、「自分が殺したバプテスマのヨハネがよみがえったのだ」と恐れます。それはやましいことがあったからです。

彼は、自分の兄弟の奥さんだったヘロディアを妻としていたことを指摘されたため、ヨハネを投獄していました。ヨハネが正しい聖なる人であることを知りながら、喜んで話を聞きながら、釈放しなかったのです。

そんな時、自分の誕生パーティーでヘロディアの娘の踊りに有頂天になり褒美を約束したところ、母にそそのかされた娘がヨハネの首を求めました。ぞっとする話ですが、ヘロデは面子を守るためにヨハネの首を盆に載せて与えたのでした。そんなことがあったので、ヨハネがよみがえったのだと思い込んだのです。

ヘロデの失敗は、一つはヨハネが正しいと知りながら投獄したままにしたことです。話を聞いて喜ぶだけでなく、聞いた話を「信じて行動する」べきでした。

もう一つは、面子をつぶしたくないという低俗な理由で無実の人を殺したことでした。自分の体面と人の命を天秤にかけて、体面の方をとったのです。その結果、罪悪感に苛まれたでしょう。

全ての人がこの弱さを神によって変えていただく必要があるのです。


2022年10月30日

最も小さい者にしたこと

マタイ25章31―40節

 

困っている人を助ける理由は、それが良いことだからですが、突き詰めて考えるとなぜ良いのでしょうか。

それは、弱い立場に置かれている人も、人間として尊重されるべき一人だからです。

主イエスはその事を、世の終わりに起こることを用いて印象的に話されました。その時には、主イエス様が王として来られ、王座に着かれます。そしてすべての人を二つに分けるのですが、その基準が、困っている人を助けたかどうかなのです。

困っている人を助けた人たちも、助けなかった人たちも、それが主イエス様にしたことになったと気づいていませんでした。しかし、困っている人に対する行動や態度が、主イエス様にしたことになるのだと言われるのです。

弱い立場にいる人、困っている人は、私たちと無関係な人たちではなく、主イエスご自身なのだと。

私たちにできることは、限られています。しかし、世界中の困っている人を助けるようにと言われているのではなく、目の前にいる一人の人、最も小さい者の一人にするようにと励まして下さるのです。


2022年10月23日

怒りを治める

創世記4:1-9、エペソ4:26-32

 

戦争などの争いの原因の一つとして、怒りがあります。他の感情と比べて、攻撃行動を伴うという特徴があり、それが問題になります。

怒りを制御する方法として、1.少しでも冷静になる時間を取る。2.言葉を選ぶ。3.ユーモアと笑い。4.疲れをためない。5.低血糖を避ける。6.カウンセリングを受ける。などが紹介されていました(『怒りの正体』p110-)。しかしこれらは、言うは易く行うは難しです。

聖書の中にも怒りが扱われている場面があります。アダムとエバの息子であるカインは、アベルをねたんで殺してしまいます。その前に神が、「あなたはそれを治めなければならない」と語っておられたのに。それが人間の罪深さです。

怒りに飲み込まれず、赦し合い受け入れるためには、私たちの身代わりとしてキリストが十字架にかかられたので私が神に赦されているという事実を味わう必要があります。赦された者だけが、真に人を赦すことができるのです。


2022年10月16日

イエスに招かれる

マタイ9章10-13節

 

宇治福音自由教会の目指すものは「イエス様と出会う教会~招かれ、救われ、教えられ、変えられ、遣わされる」です。会堂建設に必要なこととして、信仰を確かなものにしていただきたいと願います。

一つ目の「招かれ」ですが、これは主イエス様が私たちひとりひとりを招いて下さったところから信仰が始まることを意味しています。今日の聖書の箇所でも、主イエスは人々を招き、受入れ、食事をしておられました。その中に、取税人や罪人といった人たち、人々から避けられていた人たちが大勢いました。

パリサイ人がそれをとがめるようなことを言った際に、主イエス様は「医者を必要とするのは病人だ。わたしは罪人を招くために来たのだ」と宣言されました。嫌がられ、避けられるような人たち、その人たちを招くことが、私の使命だと言われたのです。

私たちがどんな生き方をして来たとしても、神の前に完全に正しいと言える人は一人もいません。自分が正しいと思っている人は、自分の姿を直視できていないのでしょう。主イエス様は、本来断罪されても仕方ないような私たちを、大切な存在として招いて下さるのです。私が来たのはそのためだ、と言って下さるのです。


2022年10月9日

パウロ宣教を支えたピリピ教会から学ぶ

ピリピ1章1-11節

 

今年、宇治福音自由教会は宣教開始から50周年の記念の年です。そして今日はその50周年を記念する礼拝です。

デジタル大辞林に、記念するとは「過去の出来事・人物などを思い起こし、心を新たにすること」とありました。

聖書の中では、神が行われた大いなる御業を記念するようにと言われています。その代表的なものが、出エジプトの出来事です。また新約聖書では、主イエスに香油を注いだ女性の事が記念として語られると言われます。

宇治福音自由教会の50年の歴史の中で、主がなして下さった御業、それに答えた人間の側の献身を思い起こす機会となるように願います。

同時に、過去の恵みを数えて終わるのでなく、今を生きる私たちが心を新たにされる必要があります。過去になされた神の御業がその時だけのものではなく、これからも新たになされていく。過去とは違った形で、新しい恵みが与えられて行く事を期待できるのです。

また、その恵みに応えて私たちも改めて主に献身して行く。過去の立派なクリスチャンだから献身できたのではなく、普通の私たちが自分を主にささげていく時に、素晴らしい主の御業を経験することができるのです。

神様の祝福を豊かに味わう時となりますように。


2022年10月2日

二人で遣わされる

マルコ6章6-13節

 

主イエスが郷里の人たちの不信仰に驚かれた後、近くの村を巡って教えられ、弟子たちを派遣されました。

その際のポイントは第一に、二人一組。弱いから支え合うことと、旅を共にするためには相手に合わせ思いやることを学ぶ必要があったはずです。

第二に、何も持たないこと。旅の装備は最低限で、持ち物は杖のみ。これは、自分のお金などの持ち物に頼るのではなく、全ての必要を満たして下さる神を信じて生きる訓練でもありました。

第三に、一つの町では一軒の家にとどまること。選り好みせず、居心地の良さを求めず、主の導きに従い身を委ねる訓練です。

第四に、福音を受け入れない人たちにはその責任を問うこと。証言として、足のちりを払い落として出ていくようにと言われます。神のことばを聞くかどうかは、それだけ大きなことなのです。

結果的に、欠点だらけの弟子たちが、自分の力によってではなく神の力によって支えられ、悪霊を追い出し、病人を癒やしました。弱さの内に働く神の力を経験したのです。


2022年9月25日

主イエスが迎えて下さる

ヨシュア記1章1-9節

 

今日は召天者記念礼拝ですが、今年初めての方から、もう何年も出席している方もおられます。何年も来ているのに、天国の事がピンと来ないという方もいらっしゃるでしょう。その方々には、主イエスが「私を信じなさい」と言われている意味を知って、安心していただきたいと思います。

全部は分からなくて当然なので、分からないことも含めて信じてお任せすればいいのです。それができるように、ぜひお祈りしていただきたいと思います。

それでも少しでも知るために、聖書を読んでいただきたい。今日の箇所では、主イエスが私たちを天国に行けるようにあちらから迎えに来て下さると言われています。

迎えられた私たちは、天国で家族と喜びの再会を果たすことができるのです。

そして道であり、真理であり、いのちである主イエスが助けて下さるので、再会するだけでなく、心が通じるようなコミュニケーションができるようになります。悲しみも、苦しみもないところで、心が通じ合う喜びを経験できるのです。

皆さんが主イエスの招きに応えて、祝福を受け取っていただきたいと願っています。


2022年9月18日

主と共に冒険を

ヨハネ14章1-6節

 

旧約聖書のヨシュア記は、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して40年後、いよいよ約束の地に入る時から始まります。最初の言葉は、「モーセは死んだ」でした。40年の間、民を導いた偉大な指導者が死んだ、もういない、という事実を認め、次の指導者がその責任を継承する必要がありました。

私たちも、神ご自身よりももっと手近なものを頼ろうとする傾向があります。しかし、モーセが死んだように、それはいつまでも続かない。神だけに頼るために、他に頼るものがなくなる必要があるかも知れません。

責任と共に、約束も継承します。神は約束の地をすでに与えていると言われます。そして、共にいて、見放さず見捨てないと約束して下さいます。

「強くあれ、雄々しくあれ」という命令は、神が共にいるという約束と共に与えられているのです。そして、強く雄々しくという命令は直接的に敵と戦う励ましではなく、神のことばを守り行うためと言われます。大切なことは神のことばに従うことなのです。そうするならば繫栄すると約束されます。

この神様と共に、約束と共に、人生の冒険を楽しみた

願います。


2022年9月11日

天国の希望

ピリピ1:21-23,2:17-18,黙示21:3-4

 

先週日曜日に教会員の方のご葬儀がありました。その時に、天国の素晴らしさを知っていること、天国に行ける約束があること、天国で再会できる希望があることがどれほどありがたいかを、改めて実感しました。

使徒パウロは、何度も死に直面し、天国を身近に感じていましたが、彼は地上よりも天国にいる方が、キリストと共にいられるのではるかに素晴らしいと語っています。

ですから、福音を伝えたために殉教の死を遂げたとしても、それを喜びますと書いています。しかも、手紙の受取人であるあなた方も、一緒に喜んでくださいとまで書いているのです。

その天国は、神がおられ、私たちの人生の苦しみを知り、涙をぬぐって慰めて下さるところです。そこにはもはや、苦しみも悲しみもなく、ただ喜びと感謝にあふれた、麗しい場所です。

年をとることは死に近づくことでもありますが、この天国を知り、死を恐れず希望をもって生きることができるなら、なんと幸いでしょうか。


2022年9月4日

驚くべき不信仰

マルコ 6章1-6節

 

主イエスは、2つの奇跡で2人の人を助けたのち、弟子と共に郷里のナザレに行き、そこで同じように安息日に会堂で教えました。それを聞いた地元の人たちは、教えに驚くと同時に、なぜどこから知恵や奇跡をおこなう力を得たのかと言って、逆に信じられない気持ちになったのでした。

地元の人は、自分たちが知っているイエス様ではないという事実を受け入れられず、「信じられない」という反応になってしまったのです。本来ならばよく知っていることはプラスに働くはずが、マイナスに作用したのです。

主イエスは、そういうことはある、と言われます。私たちも、自分の理解できる範囲に主イエスを小さく狭く押し込めようとして、その偉大さが分からないということがあるのではないでしょうか。そうすると、主イエスが私たちに力あるわざを行なって下さる機会を、私たちがつぶしてしまう事になります。

5章で主イエスにすがって癒された長血の女性や会堂司ヤイロのように、「恐れないで、ただ信じていなさい」とのお言葉を信じたいと心から願います。


2022年8月28日

キリストによる平和

エペソ 2章11-18節

 

ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。


2022年8月21日

キリストの思いを

ピリピ 2章1-8節

 

ピリピ書は、喜びの手紙と言われます。パウロが獄中から書いているのに、喜びにあふれた内容だからです。そしてそれは、ピリピ教会の人たちが失いかけていたものでした。

今日の箇所で、パウロが「私の喜びを満たして下さい」と書いていますが、ピリピ教会の人たちの愛と思いと祈りが一致することがパウロの喜びだったのです。ピリピ教会はパウロを良くサポートし続けた素晴らしい教会でしたが、一致できないという課題を抱えていたのです。

しかし、キリストを信じて救われた者という共通の土台があり、その恵みを経験している者たちとして、一致することができるはずでした。パウロはそれを願ったのです。

一致に必要なことは、謙遜です。自分の意見や考えが正しい、他の人が間違っている、気づいていない、と無意識に考えてしまうことが、成長と一致を妨げるのです。

また、謙遜は、主であるキリストのお姿でもありました。キリストを信じる者として、お手本であるキリストに似た者になる。それが成長であり、神はそのように私たちを成長させて下さるのです。


2022年8月14日

平和をつくる者

マタイ 5章6-9節

 

8月15日は日本の敗戦の日であり、またロシアによるウクライナ侵略が続く中、改めて平和について考えさせられます。

聖書の中で平和を表す言葉は、旧約のヘブル語シャロームと新約のギリシャ語エイレーネです。これは単に争いがないだけの状態よりももっと積極的に良い状態を表す言葉で、平安とも訳されます。それは、神の正しさが社会に実現し、結果として繁栄し、争いがなく調和している事です。それは特に弱い立場の人がどういう状況に置かれているかで判断できます。

平和=より良い状況を作り出すために、時には現状を反省し、正していく必要があります。そのためには摩擦や誤解や対立を覚悟することも求められます。自分に直接関係のない事柄で、そのような犠牲を払ってまで平和をつくる者になれるものでしょうか。

神に愛されていることを知り、神を信じ、神に救われた者にはそれができると語られます。まず神と和解し、神との間に平和を与えられ、それを味わうからです。また、神が実際に助けて下さるからです。

神から注がれる愛によって、私に関わるすべての領域で、平和をつくる者となることができるのです。


2022年8月7日

恐れず、ただ信じなさい

マルコ 5章21-24、35-43節

 

ヤイロという人が、恥も外聞もなく主イエスの前で土下座をして、今にも死にそうな娘を直して下さいと頼んだことに応えて、主イエスが向かいました。その途中に先週の長血の女性が割り込んできたのでした。

女性が癒され、主イエスに声をかけていただいたその時に、ヤイロに絶望的な知らせが届きます。娘が亡くなったというのです。

ヤイロは主イエスと長血の女性とのやり取りを、早く来てほしいとハラハラしながら待っていたでしょう。それが、ついに間に合わなかったのです。どれほど落胆し、絶望したでしょうか。しかし主イエスは、「恐れないで、ただ信じていなさい」と語られます。

私たちは、もう駄目だ、手遅れだ、と感じるような経験をし、絶望を感じることがあるかも知れません。しかし主イエスは、そこで「恐れず、ただ信じなさい」と言われるのです。それは、最大の問題である死に打ち勝つからこそ語れる言葉でした。

実際、ヤイロの娘は亡くなっていたのに、主イエスが眠りから起こすようにしてよみがえらせました。十字架にかかり、死んでよみがえられた主イエスは、私たちにも同じように死すら恐れる必要がないと語り、経験させて下さるのです。


2022年7月31日

信仰があなたを救った

マルコ 5章21-34節

 

ゲラサ人の地からもう一度ガリラヤ湖を渡って戻ってきた主イエスが次に出会ったのは、長年婦人科系の病気に苦しんできた女性でした。厳密には、彼女はそっと近づいて主イエスの衣にだけ触れて、そっと立ち去るつもりだったようです。

しかし、衣に触れただけで長く苦しめられてきた病気がすぐに直っただけでなく、主イエスが「誰が私の衣に触ったのですか」と問い続けられたので、白状するような気持で自分が触ったと申し出たのです。真実をすべて話したとありますので、なぜ、どのように近づいて衣に触れたのかを全部話したのでしょう。

それを聞いた主イエスは、彼女を責めるのではなく、「あなたの信仰があなたを救った」と褒め、病が癒されたことを宣言されました。そっと去っていたとしたら、彼女が癒されたこと、また癒された行動の原動力となった彼女の信仰が、人々に明らかにならないままだったと思います。それを主イエスは明らかにし、彼女の今後の生活に祝福があるようにと送り出されたのでした。

先を急いでいるはずの主イエスが、病が癒されるだけでも大感謝なのに、期待している以上のもの、本当に必要なものをくださったのです。


2022年7月24日

敵を愛しなさい

ルカ 6章27-36節

 

「あなたの敵を愛しなさい」という主イエスの言葉は、黄金律として知られます。聖書になじみのない方でも知っているくらい有名であると同時に、そんなことできるはずないという風に言われます。

主イエスは、神を求め神を信じる者に対して、敵を愛しなさいとはっきり語られました。これは愛情を感じなさいということではなく、愛を行いなさいということです。受け入れがたい相手でも、その人に善を行い、祝福し、祈る。また、惜しまず与える。それを求められます。

お返しを期待して相手に良くしたとしても、それは罪人でさえやっていることで、何の恵みをいただけるかと言われるのです。こんなこと、できるはずないと思います。

しかし、できる道があります。それは、主イエスの愛を経験することです。

主イエスは、自分を十字架につける人たちを「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているかが分かっていないのです」と祈られました。あなたのためにも祈られました。この主イエスが、敵を愛することを可能にして下さるのです。この敵意に満ちた社会においても。


2022年7月17日

自分の命を救う

マルコ 8章31-35節

 

有名なペテロの「キリスト告白」を受け入れた後で、主イエスは早速、はっきりと受難を予告されます。それを聞いたペテロは、我慢できず主イエスをいさめました。弟子が師を教えるようなことをしたのです。

主イエスは「下がれ、サタン」と答えられました。主イエスを、全ての人を救うための十字架に向かわせないのは、まさにサタンの誘惑でした。

しかし主イエスは、自分の苦しみを避けることが一番ではないとはっきりと宣言されました。そしてそれは、主イエスに従いたいと願う者も同じだと言われます。苦しむことを恐れず、避けず、主イエスに従うようにと迫られるのです。

信仰の基本は喜びです。主イエスに愛されている、主イエスに救われた喜びで、ついて行きたいと願うのです。

その喜びゆえに、一般的な「成功」を求める生き方ではなく、主イエスに従って「十字架を負う」生き方ができるようになるのです。

自分の力で救いを得るのではなく、主イエスと福音のためにいのちを失うことが、結果的に命を救うと言われます。私たちの発想の逆転が必要なのです。

主イエスのため、福音を伝えるために、犠牲をいとわず主イエスについて行く者となりたいと心から願います。


2022年7月10日

主がどんなにあなたを

マルコ 5章1-20節

 

4章最後の嵐を超えて、たどり着いた「向こう岸」には、悪霊に憑かれた人が墓場で生活していました。生活と言っても、鎖と枷を引きちぎり、昼夜叫び続け、石で自傷行為を繰り返す、悲惨な状況でした。

彼は主イエスを見つけて走り寄りますが、悲惨な状況なのに構わないでほしいと願います。救いを拒む、悪霊の言葉だったのでしょう。

しかし主イエスは、悪霊に名前を言わせ、彼から追い出しました。圧倒的な力の差です。唯一、豚に乗り移らせてほしいという悪霊の願いをきかれ、豚の群れが湖に飛び込んで死んでしまいました。

彼は正気に戻って服を着て座っていますが、豚で損害を受けた人たちは、彼が救われたことを喜べず、なんと主イエスに出て行ってほしいと願うのです。確かに大損したかも知れませんが、お金でしか価値が量れなかったのでしょうか。

癒やされた彼は、主イエスについて行きたいと願いますが過去の自分を知っている地元に残って、今の自分になれた恵みを語るようにと断られます。その彼の証言で、人々は驚きました。人が神に変えられ、周りはその変化、神の御業に驚くのです。


2022年7月3日

主がどんなにあなたを

マルコ

 

4章最後の嵐を超えて、たどり着いた「向こう岸」には、悪霊に憑かれた人が墓場で生活していました。生活と言っても、鎖と枷を引きちぎり、昼夜叫び続け、石で自傷行為を繰り返す、悲惨な状況でした。

彼は主イエスを見つけて走り寄りますが、悲惨な状況なのに構わないでほしいと願います。救いを拒む、悪霊の言葉だったのでしょう。

しかし主イエスは、悪霊に名前を言わせ、彼から追い出しました。圧倒的な力の差です。唯一、豚に乗り移らせてほしいという悪霊の願いをきかれ、豚の群れが湖に飛び込んで死んでしまいました。

彼は正気に戻って服を着て座っていますが、豚で損害を受けた人たちは、彼が救われたことを喜べず、なんと主イエスに出て行ってほしいと願うのです。確かに大損したかも知れませんが、お金でしか価値が量れなかったのでしょうか。

癒やされた彼は、主イエスについて行きたいと願いますが過去の自分を知っている地元に残って、今の自分になれた恵みを語るようにと断られます。その彼の証言で、人々は驚きました。人が神に変えられ、周りはその変化、神の御業に驚くのです。