礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。
詩篇55篇
コロナ以降、日常生活が大幅に制限され、いろんなことにストレスを感じることが多くなったのではないでしょうか。今まで、自分なりの方法でストレスを処理して来れたけれど、コロナ以降はそれが追い付かなくなっている方もおられるのではないかと思います。
聖書を通して神が教えておられるのは、様々な心配事を神にゆだねるように、という事です。神に丸投げして、任せてしまうのです。
それは、言うは易く行うは難しです。まず何が必要かというと、心配や不安をそのまま言葉にして神に訴える事です。そのためには、自分の心がどう感じているかを自覚し、ある意味で弱さを自覚することが必要です。それができたら、不思議に私たちの心は、マイナスからプラスへと変わって行きます。「神は助けて下さる」と言えるようになるのです。
神を知り、神の愛を信じ、不安に向き合えますように。それを言葉にして神に訴え、お任せすることができますように。そしてお任せした時の平安を経験できますように。
マルコ9章1-8節
ペテロを「下がれ、サタン」と叱られた後で、主イエスはあとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られます。ペテロを見限ったのではないと分かります。
そこでイエスの姿が変わり、衣が非常に白く輝き、旧約の預言者であるモーセとエリヤが現れて語り合うという、超自然的な出来事が起こりました。ペテロの告白通りにイエスがキリストであることが明らかになったのです。
ペテロは恐怖に打たれ、よく分からないことを口走ります。そこに神の声が聞こえ、再度イエスこそがキリストであることが示されます。そこにいたモーセとエリヤ以上の存在なのです。
しかしその栄光の姿はいつの間にか消えて、後は今まで通りのイエスだけがおられました。いつも通りの、普通のイエス様だけ。二つの事を考えさせられます。
一つは、私たちの目にはみすぼらしく見えても、背後に神の著しい奇跡が起こっている場合がある。もう一つは、誰もが目を惹かれる素晴らしさが大切なのではなく、十字架を負うという生き方が大切なのだという事。見える事の背後にある奇跡に気づき、イエスに聞く生き方をできますように。
マルコ8章31-38節
8章29節の「あなたはキリストです」とのペテロの告白を受けて、主イエスはご自分の受難を弟子たちに教え始められました。それを聞いたペテロは、自分が教える立場に立って主イエスをいさめました。主はペテロを、「下がれ、サタン」と叱責されます。ペテロが、自分の思い込みで神のみこころを否定したからです。これは、どこかへ行ってしまえという命令ではなく、私の後ろに従いなさいという命令でした。
私たちも、自分の思い込みで、神の御心や導きを否定することがあります。そうではなく、「自分を捨て、自分の十字架を負って」主に従うことが必要なのです。
私たちの発想を逆転することが必要かも知れません。私たちは、何かうまくいくこと、成功することを求めます。それ自体が悪いわけではありません。しかし、うまく行くことではなく、主イエスに従うことが大切なのです。私の罪が赦され救われるために十字架で死んで下さった主イエスの恵みに感謝して、従うのです。それはただ苦しい道ではなく、喜びとなって行きます。
喜んで自分の十字架を負えるようになりますように。
使徒2:1-4、37-42
暦では先週ペンテコステ(聖霊降臨節)でした。ペンテコステは元々50日目という意味の言葉で、祭りの日でした。この日に聖霊がクリスチャンたちの上に下ったので聖霊降臨節という意味になったのです。
聖霊が下られたのは、みんなが同じ場所に集まっている時でした。ただ集まっていたというより、1:14-15を見ると心を一つにして祈っていたと思われます。不思議ですが、ともに集まって祈ることがとても大切なのです。
いったい何が起こったのかと大勢の人が注目したところで、聖霊に励まされたペテロが聖書の話をし、それを聞いた人たちが心を刺されて悔い改めてキリストを信じました。なんとその日3000人の人が加わったと記されています。そして彼らはいつも集まり、教えと交わりと聖餐と祈りを忠実に行いました。それが教会の始まりでした。
何かの組織を作ったのではなく、神が彼らの祈りに答えて、キリストが約束された聖霊を送られ 、聖霊に励まされて教会が始まったのです。
私たちも聖霊に励まされてともに集い、教えと交わりと聖餐と祈りを共にして行きます。
マタイ19:13-15、18:1-5
母の日父の日にちなんで、子どもとの関わりを聖書から学びます。
この箇所では、主イエスに祈ってもらうために親が子どもたちを連れてきますが、弟子がそれを叱ります。当時の一般的な価値観では子どもは無価値で、一人の人としての扱いを受けないことも多かったので、連れてきた親を叱ったのでしょう。
しかし主イエスは逆に、子どもたちを連れて来させなさい、邪魔をするな、と弟子を叱りました。子どもが大切な存在だと教えられたのです。
そして子どもが一人の人として大切であると言うだけでなく、ある意味で大人の方が子どもに学ぶ必要があるのだ、ということも教えられました。子どものような人が天国に行くことができ、天国で偉いのは子どものように自分を低くする人だと言われたのです。
私たちは子どもを下に見て、自分の思い通りにしようと傲慢な考え方をしてしまいます。しかし、子どもの謙遜さに学ぶことによって、私たちも成長できるのです。子どものように、主イエスを信じ頼れますように。
ローマ10:12-15、第2テモテ4:1-2
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のですが、呼び求めるためには信じる必要があり、信じるためには聞く必要があり、聞くためには宣べ伝える人が必要であり、宣べ伝えるためには遣わされる必要がある、と言われます。
主イエスを信じて救われ、その恵みを経験した一人一人のクリスチャンは全員、福音を宣べ伝える者として神から遣わされています。日常生活のすべての場面で、主の恵みを証しするのです。そしてその働きと生き方の素晴らしさが、「なんと美しいことか」と言われます。
その証しは同時に、してもしなくてもいいオプションではなく、神からの厳かな命令です。私たちの目に見える条件が良くても悪くても、成し遂げるべきことなのです。
会堂建設を含めて、私たちの生活すべてが、喜びをもって主の救いの恵みを証しするものとなりますように。
マルコ8章27-30節
私たちが誠実に聖書を読む時に、「イエス・キリストとは誰か」と問われてきます。
知識を増やせば、それなりの事は答えられるでしょう。弟子たちも「人々はわたしをだれだと言っていますか」と問われた時には、饒舌にいろいろと答えていました。こう言う人もいる、ああ言ってる人もいる、と。しかしそれはまるで他人事で、自分とは関係のないような話しぶりでした。評論家です。
次に主イエスは「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」と問われました。これが、私たちが聖書を通してイエス・キリストを知っていく中で突きつけられていく問いでもあるのです。他の人がどう言っている、ではなく、あなたはどう考えているのですか、と問われるのです。
ペテロは「あなたはキリストです(救い主です)」と答えました。素晴らしい告白です。その意味が分かってなかったことが後で明らかになりますが、そんな不完全な告白をも主は受け取って下さるのです。私たちも「あなたはキリストです」と告白できるでしょうか。
マルコ8章22―26節
今日の目が見えない人の癒しは、7:31-37の耳が聞こえず口のきけない人の癒しと対になっています。
人々が目の見えない人を連れて来て、癒して下さいと懇願します。それで主イエスは彼を村の外に連れ出して1対1で癒されます。その際に彼の両目に唾をつけ両手を当てると、徐々に見えてきます。再び手を当てるとはっきり見えるようになりました。このプロセスも、目と耳の悪い人の癒しと共通する部分があります。
この2つの奇跡の間に4000人の給食の奇跡と、そこから学ばない弟子の姿が記されています。弟子たちは、肉体的には、耳も口もきけますし、目も見えていました。しかし、主イエスが誰であるか、どれほど力ある方なのかが分かりませんでした。肉眼は見えても、心の目は見えてなかったのです。
見えなかった肉眼が見えるようになる奇跡は、素晴らしい奇跡です。そして見えなかった心の目が見えるようになり、主イエスを信じられることは、それ以上に素晴らしい奇跡です。主イエスは私たちの心の目も見えるようにして下さいます。
マルコ8章11-21節
4000人の給食後に舟でダルマヌタ地方に行ったところ、パリサイ人が来て主イエスに議論を吹っ掛けます。メシアの証拠として奇跡を見せるなら信じると言ったようです。それは、神であるお方を自分たちがテストして、合格なら神と認めると言うような態度であり、そもそも信じるつもりがないのです。私たちも、知らないうちに神をテストするような心になっていないでしょうか。
パリサイ人を離れた主イエスは、もう一度舟でベツサイダという町に向かいます。パリサイ人とヘロデのパンだねに気を付けるよう語ったら、弟子たちが責められたと思って議論になりました。忘れ物をした、という思いが強すぎて、主イエスが語られたことを誤解してしまったのです。これも私たちにあることです。
神が聖書を通して語って下さることをそのままで受け止める、というのは実は難しいことです。それができる時に私たちは、神からの深い慰めや愛を受け取り、周りに感謝があふれていることに気づけるのです。
ヨハネ11章17-27、38-44節
ヨハネ11章は、ベタニヤという村のラザロという人が亡くなった後で主イエスが到着され、彼をよみがえらせるという出来事が記されています。
最初に彼が病気だと聞いたのに、あえて2日後に出発し、到着したら埋葬されて4日も経っていました。死なないで欲しいという望みが完全に打ち砕かれた状態です。しかし主イエスは、「ラザロはよみがえります」と語られ、「わたしはよみがえりです。いのちです。」と宣言されます。人をよみがえらせ、自分も復活し、信じる者にいのちを与えるお方なのです。
実際、墓石を取り除けて呼びかけると、死んでいたラザロが出てきました。よみがえったのです。
私たちも、主イエスを信じるならばこの命が与えられます。死んでも生きる。死んだ後にいのちがある。多くの人がもっとも恐れる「死」を恐れる必要がなくなるのです。
あなたも主イエスを信じてこの幸いをぜひ受け取り、経験してください。
創世記18章9-15節
創世記18:14は2023年度のみことばです。この言葉は、年老いたアブラハムとサラ夫妻に子どもが与えられるという約束として語られたものでした。
最初にアブラハムが神からこの地を子孫に与えると約束されたのは、75才の時でした。それから紆余曲折があり、99才になってもまだサラに子どもは生まれません。神から語られても、今さらとても信じられず、笑ってしまいます(17:17、18:12)。
その二人に対して、神は「来年の今ごろ、私が戻ってくる時に、サラには男の子が生まれている」と約束され、その上で「主にとって不可能なことがあるだろうか。」と問われました。人間には不可能なことがあるが、全知全能の神には不可能がないと言われるのです。
私たちの願いが100%実現するわけではありませんが、みこころならばそれがどんなに困難に見えても実現する。それが神の御力です。信じられるでしょうか。
新会堂の事も、新年度の歩みも、神の深遠なみこころが実現することを期待して歩みたいと願います。
マタイ28章1-10節
主イエスは、預言しておられたとおりに3日目によみがえられました(金曜日が十字架、日曜早朝に復活)。番兵がいた墓に、み使いが来て復活を告げます。主イエスの埋葬をやり直すために来た女性たちに空の墓を見せ、この事実を弟子たちに伝えるようにと命じます。
彼女たちは大喜びで言われたとおりに急いで戻りますが、その途中で主イエスが会いに来て下さいました。聞いただけでなく、直接会って復活をさらに信じることができたでしょう。
祭司長たちは、復活ではなく弟子がご遺体を盗んだと嘘の情報を流し、一時的にそれが成功します。しかし、よみがえった主イエスに出会った弟子たちが増えるにつれ、弟子たちが死刑をも恐れず主イエスを伝えるように変えられ、復活が事実であることが伝わって行きました。
私たちも、この主イエスの復活を信じ、死の力を含めてあらゆる災いを恐れなくていい生き方へと変えられ続けたいと願います。
マタイ27章39-50節
今週は受難週ですので、主イエスの十字架の場面を読みます。十字架につけられる前から主イエスは兵士に侮辱され、十字架にかけられてからも通りすがりの人、祭司長や律法学者たちののしられました。
何時間もそれらに耐えておられた主イエスが、絶命する前に大声で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばれました。神の御子が、完全に父なる神から見捨てられた者として処刑され、死なれたのです。それは、私たちが本来受けるべき罰を身代わりに負って下さったことを表しています。
また、私たちは人生の中で「主よ、どうしてですか!」と問いたくなるような辛い経験をすることがあります。そんな時に「どうしてですか!」と問うのは不信仰なのではなく、神を信じるが故、そして神を信じたいが故の、魂の叫びです。主イエスは、そんな私たちと、まったく同じになって下さったのです。だから主イエスは、私たちを本当の意味で慰め励ますことができるのです。
この主イエスの受難のゆえに、主イエスを信じる人たちは救われるのです。主に感謝します。
マルコ8章1-10節
主イエスがガリラヤ湖の東岸で耳が聞こえずしゃべれない人を癒やされた後、大勢の群衆が集まってきました。食べることよりも主イエスの教えを聞くことを優先し、3日も経ってしまったというのです。どれほど真剣に、神のことばを聞いて行うことを求めていたのでしょうか。
主イエスはかわいそうに思い、彼らが求めなかった「食べ物」をあげたいと言われました。それに対して弟子たちは、まるで先日の5000人の給食の奇跡を全く経験しなかったかのように、「こんなところで食料は手に入りません」と答えるのです。素晴らしい奇跡を経験したのに、あんな事はもう起こらないと思ったのでしょうか。
主イエスは彼らに怒るわけでもなく、淡々と奇跡を行われます。しかも、前回と同じパターンで、思い出させるかのように。
私たちは、自分の力で何かをできると思って高慢になり、失敗する危険があります。逆に、神が働いて下さるなら大丈夫という場合でも、恐れて踏み出さないこともあります。それは謙遜ではなく不信仰です。自分の力ではなく神の力を信じ、経験する者でありたいと願います。
詩篇51篇17節
私たちが神に何かをささげる時に、大切なのは心であるとこの詩篇は教えています。大きなハンマーで粉々に砕かれたような心です。それは、悔い改めということを表しています。
ダビデのように自分の罪を認め、苦しみの中で「罪人の私をあわれんでください」としか祈れないような心。その心は、どんなに高価なささげものよりも尊く、神はそれを喜んで受け入れて下さるのです。
自分の力では正しい生き方をすることができない、それどころか神を信じる事すらできないのが、私たちです。その私たちが、ありのままで「罪人の私をあわれんでください」と祈る時、神は私たちをさげすまず、受け入れて下さるのです。
自分の本当の姿、罪や頑なさに気づき、認めるのは難しいことです。心が鈍感で、プライドが邪魔します。しかし気づいて初めてささげることができるのです。
詩篇51篇12−13節
詩篇51篇の第2弾は12-13節で、大きなテーマは喜びの回復です。この喜びは、救いの喜びです。
私たちが主イエスを信じて救われた時に、心に喜びが与えられます。しかし、この喜びが失われることがあります。ダビデが大きな罪を犯した時に喜びを失ったように、私たちも罪ゆえに喜びが失われます。その喜びを回復して下さいと祈るのです。
喜びが回復するなら、喜んで主に仕える奉仕をし、主に時間やお金をささげるようになります。それは義務感からでなく自由な心からなされるささげ物です。
大きな罪を犯した者がこのように喜べるようになった、その事を伝えたくなるのは当然です。伝えたい、と同時に伝えるべき責任があります。自分の周りの人たちに対して、伝えるべきものを預かっているという責任です。愛すべき、伝えるべき人たち。私たちは、救われたならば自分のためだけに生きるのではなく、誰かのために生きるように変えられていくのです。
救いの喜びを回復させていただきましょう。
詩篇51篇10-11節
詩篇51篇は、ダビデがバテ・シェバとの姦淫という深刻な罪(第2サムエル11章)を犯した後で、罪を悔い改めて祈った祈りです。今週来週で10節から13節を読みます。
まず10節では、ダビデはきよい心を造ってくださいと祈ります。罪に汚れた自分にはきよい心を造ることはできません。神の創造の力で、全く新しくきよい心を造っていただくしかないのです。そして2度とあのような罪を犯さないよう、揺るがない霊を求めます。神は私たちの心を新しくすることがおできになるのです。
また11節では、自分を投げ捨てず聖霊を取り去らないようにと祈ります。神の恵みから切り離されても当然の自分を、神が助けて救ってくださることを信頼しているのです。なぜ信頼できるかというと、聖霊が与えられていることが分かるからです。
自分でも信じたくないほどの罪を犯し、自分自身を全く信頼できないとしても、その私たちを主は必ず助け、心を新しくして下さる。その事を信じて祈れることは、どれほど心強いでしょうか。
ピリピ2章1-5節
SNSは功罪両面ありますが、罪の一つは人の対立や憎しみを増幅してしまうという点です。面と向かっては言えないようなことを匿名で書き込み、攻撃する。その原因の一つは、想像力の欠如だと思います。自分と似ていない他者の視点に立つことは難しく、その究極が戦争につながるのではないでしょうか。意見の違う人を尊重できないので、武力に訴えるのです。戦争に対する無力感を感じた1年間でした。
聖書はこの現実にどんなアドバイスをくれるでしょうか。それは、愛の心で互いに人を自分よりも優れていると思うこと。そして、自分の事だけでなく他の人の事も顧みる事です。これができれば多くの争いはなくなります。しかし、分かっていても実行できないのが私たちです。
そのために、イエス・キリストを知り、信じる必要があると言われます。この愛の姿は、キリストの姿そのものだったのです(6-8節)。そして、信じてすがる者をキリストが助けて下さり、心に余白を与えて下さいます。キリストと同じ思いを持てるように変えて下さるのです。
このキリストをより深く心で知り、信じることができますように。
マタイ5章13-16節
新会堂建設を考える際に大切なことは、私たちの目指す「イエス様と出会う教会」となっていくことです。それは建物については、今教会に来ている私たちのためだけでなく、まだ来ていない人が来やすいこと。そしてそこに集う人については、一人一人神を信じる生き方が身について、主にある魅力を醸し出すことです。
そんなことできるのかと心配になるでしょうか。大丈夫です。イエス様は、群衆に向かって語られた説教で、あなた方は地の塩です、世の光です、と宣言されました。そして塩気を保ち、光を輝かせるようにと励まされました。
私たちが自分の力で塩気を保ち、光を輝かせることはできません。主イエスが内にいて下さり、主イエスの塩気を保ち、主イエスの光が輝くようにして下さるのです。私たちは土の器です。しかしそこに入っているのは、まばゆいばかりの宝なのです。(第2コリント4:7)
それゆえ私たちは、塩味の利いた生き方をし、世の腐敗を防ぐ生き方ができるようになります。そして、私たちのその生き方が輝く時、周りの人が私たちを救って下さった神を崇めるようになるのです。
第1ペテロ2章11-17節
教会では、建国記念の日の祝日をあえて「信教の自由を守る日」と言い換えることが多いです。それは、この建国記念の日に大きな問題が隠れているからです。
元々2/11は、日本神話で神武天皇の即位の日とされ、紀元節という祝日でした。明治以来それが天皇を神格化して国民を教育するために利用されて来たので、戦後廃止されました。しかし、保守系政党の働きかけで1966年に復活し、実際の建国の日ではないという説明で「建国記念の日」とすることで落ち着きました。
第2次大戦までは、天皇の名のもとに、神道・仏教だけでなく多くの教会も戦争に協力し、戦後それを悔い改めました。しかし今また日本は戦争ができる国となり、信教の自由が脅かされる事態が進んでいます。
私たちは地上では旅人であり寄留者であって、本籍は天にあります。天国人として、立派に、法律を守って生きるのです。しかし、法律の欠陥をただし、改悪を防ぐ責任もあります。人が作った不完全な制度に盲目的に従うのではなく、神の愛のみこころが地上に実現して、全ての人が幸せに生きることを求める必要があるのです。
マルコ7章31-37節
主イエスは、ツロの地方からシドンとデカポリス地方を通ってガリラヤ湖に戻られました。デカポリス地方は、5章でレギオンを追い出した所でしたから、人々が覚えていたのでしょう。耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、手を置いて癒やして下さいと懇願します。
主イエスは彼と二人になり、うめくようにして「開け」と命じられたところ、彼は話せるようになりました。耳が開いたとあります。それまで閉じていたので聞こえず、それで話せなかったのです。
私たちの心の耳も、閉じていることがあります。神のことばも、自分に都合のいいことは聞くが、そうでなければ聞かない。ありのままでいいというメッセージは聞くが、悔い改めよというメッセージは聞かない。そうすると、人を励ます言葉を語れず、ネガティブなことばかり語る事になります。
主イエスは、耳の聞こえない者を聞こえるようにして下さいます。「開け」との一言の命令を私たちも聞き、私たちの耳が開かれ、はっきりと神の恵みを語れるようになりますように。
創世記1章1,12,21,25-27節
聖書は、天地万物を神が創造されたと教えています。植物も、動物も、それぞれの種類に従って創造されたのですが、そこに機能性とデザインとユーモアまでが込められています。自然を学べば学ぶほど、それを創造された神のクリエイティブな創造性を知ることができます。
また、その最高傑作として、人間が創られました。何が最高傑作かというと、人間は神のかたちとして、神に似た者として作られたということです。(その人間がひどいこともしてしまうのは、創世記3章の堕落ゆえです)
神に似た者として、人間は、理性や道徳性、人格や心や霊(神を求める部分)を持っています。そして、創造性も神から受け継いでいるのです。
ですから私たちは、単に人のまねをするのでは満足できませんし、自分で何かを作り出すことに喜びを感じるのです。それがアート作品でも、音楽の演奏でも、スポーツのわざでも、工業製品でも、生活の中のちょっとした工夫でも。
神を信じ、神に助けられつつ、神から受け継いだこの創造性を活かして、喜んで毎日を送れるようにと願います。
エレミヤ 29章8 14節
この箇所は、今まで多くの聖徒たちを励ましてきた有名な箇所です。しかしじっくり読むと、単純に元気になるだけではなく、いろんなことを問われます。
神が最初に語られたことは、背き続けたイスラエルに対する裁きとしての70年でした(25章)。この預言を語るエレミヤの働きの最初から、いやイスラエルに預言者が立てられた最初から、彼らは背き続けたのです。
結果として、有名なバビロン捕囚で異国に連れて行かれるのですが、2年で解放されると気休めを語る偽預言者が出ました(28章)。それに対し、エレミヤが、バビロンに連れていかれた民に宛てて書いた手紙が29章です。
そこには、70年を覚悟し、捕囚先で腰を落ち着けて生活し、家庭形成し、町が祝福されるよう祈り、偽預言者の言うことを聞かないようにと語られます。そして、70年が満ちたら、神のいつくしみの約束が成就してエルサレムに帰れる、それが神のご計画なのだ。平安を与え、将来と希望を与える計画なのだと語られるのです。
自分が生きている間に帰れないかも知れないが、子どもや孫たち、親族や近所の人の子どもや孫たちが帰れる。それが将来と希望なのです。
私たちも、自分のためだけでなく、次世代の祝福が希望となりますように。
マルコ7章24-30節
主イエスはガリラヤ地方での働きを終えて、北西の方角、異邦人の地であるフェニキア地方のツロという町に退かれました。しかしそこにも主
イエスのうわさは伝わっており、ある女性が訪ねてきます。幼い娘に取り憑いた汚れた霊を追い出して下さるように願ったのです。
主イエスの答えは意外なものでした。子どもからパンを取り上げて子犬に投げるのはよくないという言い方で、ユダヤ人のための働きで忙しいから無理だと断られたのです。主イエスらしからぬ、一見差別的な断り方でした。
しかし彼女はひどい差別だと怒ったりせず、子犬でもパンくずをいただきますと言って食い下がり、「そこまで言うのなら」という主イエスのお答えと隠れた愛を引き出しました。そして娘は癒されたのです。
この女性は、プライドを傷つけられたと怒ったりしませんでした。私たちが怒るのは、当然大切にされる権利を持っていると思っているのかも知れません。しかし、神に要求できる権利を持っている人など一人もいません。ただ、神のあわれみにすがる以外なく、その私たちを救うために主イエスが十字架にかかって下さったのです。
謙遜に救いを求める者でありたいと願います。
マルコ7章14-23節
きよいか汚れているかが、主イエスの当時のユダヤ人にとっては一大事でした。7章から始まる、手を洗いきよめることの論争を受けて、今日の教えへと続きます。
主イエスは、論争の後で群衆を呼び寄せて教え、悟りなさいと語られます。その内容は「外から入って人を汚すものはなく、人の中から出るものが汚す」ということでした。弟子たちは意味が分からず教えを請います。
それは第一に、食べ物は人を汚さないということです。パリサイ人が外面的な(儀式的に)きよめを熱心に行っていましたが、それは必要ないと言われるのです。
第二に、何が汚すのかというと、人の心の中から出てくる悪い考えが人を汚すのだということです。心の中は見えないですし、心を変えるのは本当に難しいので、人間のできる範囲を超えています。どうすればいいのでしょうか。
まず、自分が努力してきよくなれる、なっている、という誤解を捨てる事です。その誤解が他人を責めます。自分の内にあり、内から出てくる汚れを認めるのです。そして、真にきよめることのできる主イエスにすがる事です。
どんな汚れも完全にきよめられる。その素晴らしさを味わい、けがれから自由にしていただきましょう。
エゼキエル37章1-14節
この聖書箇所は非常に印象的です。預言者エゼキエルが、すっかり干からびた骨で満ちた平地の幻を見せられ、「これらの骨は生き返ることができるだろうか」と神から問われます。
干からびた骨が生き返ることなどありえないのですが、エゼキエルが「神にはできる」と信じて答えました。神がエゼキエルに骨が生き返るように預言させると、骨は肉が付き、息を吹き返し、大集団となりました。
この幻は、捕囚となったイスラエル人が「私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた」と絶望している様子を表していたのだと神は語られます。しかし、干からびた骨が生き返ったように、イスラエル人も生き返ったようになり、祖国に帰れると語られるのです。
私たちも、干からびた骨のように希望を持てない状況があるかも知れません。しかし、神にとって不可能はなく、もしも望まれるなら完全に死んで干からびた骨さえ生き返らせ、いのちの息を吹き込むことができる方なのです。
2023年、私たちの干からびた骨だけを見るのではなく、全能の主の可能性を信じ、期待して歩ませていただきたいと願います。
エホバの証人(ものみの塔)・統一協会(教会)・モルモン教とは関係ありません