礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。
マルコ7章31-37節
主イエスは、ツロの地方からシドンとデカポリス地方を通ってガリラヤ湖に戻られました。デカポリス地方は、5章でレギオンを追い出した所でしたから、人々が覚えていたのでしょう。耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、手を置いて癒やして下さいと懇願します。
主イエスは彼と二人になり、うめくようにして「開け」と命じられたところ、彼は話せるようになりました。耳が開いたとあります。それまで閉じていたので聞こえず、それで話せなかったのです。
私たちの心の耳も、閉じていることがあります。神のことばも、自分に都合のいいことは聞くが、そうでなければ聞かない。ありのままでいいというメッセージは聞くが、悔い改めよというメッセージは聞かない。そうすると、人を励ます言葉を語れず、ネガティブなことばかり語る事になります。
主イエスは、耳の聞こえない者を聞こえるようにして下さいます。「開け」との一言の命令を私たちも聞き、私たちの耳が開かれ、はっきりと神の恵みを語れるようになりますように。
創世記1章1,12,21,25-27節
聖書は、天地万物を神が創造されたと教えています。植物も、動物も、それぞれの種類に従って創造されたのですが、そこに機能性とデザインとユーモアまでが込められています。自然を学べば学ぶほど、それを創造された神のクリエイティブな創造性を知ることができます。
また、その最高傑作として、人間が創られました。何が最高傑作かというと、人間は神のかたちとして、神に似た者として作られたということです。(その人間がひどいこともしてしまうのは、創世記3章の堕落ゆえです)
神に似た者として、人間は、理性や道徳性、人格や心や霊(神を求める部分)を持っています。そして、創造性も神から受け継いでいるのです。
ですから私たちは、単に人のまねをするのでは満足できませんし、自分で何かを作り出すことに喜びを感じるのです。それがアート作品でも、音楽の演奏でも、スポーツのわざでも、工業製品でも、生活の中のちょっとした工夫でも。
神を信じ、神に助けられつつ、神から受け継いだこの創造性を活かして、喜んで毎日を送れるようにと願います。
エレミヤ 29章8 14節
この箇所は、今まで多くの聖徒たちを励ましてきた有名な箇所です。しかしじっくり読むと、単純に元気になるだけではなく、いろんなことを問われます。
神が最初に語られたことは、背き続けたイスラエルに対する裁きとしての70年でした(25章)。この預言を語るエレミヤの働きの最初から、いやイスラエルに預言者が立てられた最初から、彼らは背き続けたのです。
結果として、有名なバビロン捕囚で異国に連れて行かれるのですが、2年で解放されると気休めを語る偽預言者が出ました(28章)。それに対し、エレミヤが、バビロンに連れていかれた民に宛てて書いた手紙が29章です。
そこには、70年を覚悟し、捕囚先で腰を落ち着けて生活し、家庭形成し、町が祝福されるよう祈り、偽預言者の言うことを聞かないようにと語られます。そして、70年が満ちたら、神のいつくしみの約束が成就してエルサレムに帰れる、それが神のご計画なのだ。平安を与え、将来と希望を与える計画なのだと語られるのです。
自分が生きている間に帰れないかも知れないが、子どもや孫たち、親族や近所の人の子どもや孫たちが帰れる。それが将来と希望なのです。
私たちも、自分のためだけでなく、次世代の祝福が希望となりますように。
マルコ7章24-30節
主イエスはガリラヤ地方での働きを終えて、北西の方角、異邦人の地であるフェニキア地方のツロという町に退かれました。しかしそこにも主
イエスのうわさは伝わっており、ある女性が訪ねてきます。幼い娘に取り憑いた汚れた霊を追い出して下さるように願ったのです。
主イエスの答えは意外なものでした。子どもからパンを取り上げて子犬に投げるのはよくないという言い方で、ユダヤ人のための働きで忙しいから無理だと断られたのです。主イエスらしからぬ、一見差別的な断り方でした。
しかし彼女はひどい差別だと怒ったりせず、子犬でもパンくずをいただきますと言って食い下がり、「そこまで言うのなら」という主イエスのお答えと隠れた愛を引き出しました。そして娘は癒されたのです。
この女性は、プライドを傷つけられたと怒ったりしませんでした。私たちが怒るのは、当然大切にされる権利を持っていると思っているのかも知れません。しかし、神に要求できる権利を持っている人など一人もいません。ただ、神のあわれみにすがる以外なく、その私たちを救うために主イエスが十字架にかかって下さったのです。
謙遜に救いを求める者でありたいと願います。
マルコ7章14-23節
きよいか汚れているかが、主イエスの当時のユダヤ人にとっては一大事でした。7章から始まる、手を洗いきよめることの論争を受けて、今日の教えへと続きます。
主イエスは、論争の後で群衆を呼び寄せて教え、悟りなさいと語られます。その内容は「外から入って人を汚すものはなく、人の中から出るものが汚す」ということでした。弟子たちは意味が分からず教えを請います。
それは第一に、食べ物は人を汚さないということです。パリサイ人が外面的な(儀式的に)きよめを熱心に行っていましたが、それは必要ないと言われるのです。
第二に、何が汚すのかというと、人の心の中から出てくる悪い考えが人を汚すのだということです。心の中は見えないですし、心を変えるのは本当に難しいので、人間のできる範囲を超えています。どうすればいいのでしょうか。
まず、自分が努力してきよくなれる、なっている、という誤解を捨てる事です。その誤解が他人を責めます。自分の内にあり、内から出てくる汚れを認めるのです。そして、真にきよめることのできる主イエスにすがる事です。
どんな汚れも完全にきよめられる。その素晴らしさを味わい、けがれから自由にしていただきましょう。
エゼキエル37章1-14節
この聖書箇所は非常に印象的です。預言者エゼキエルが、すっかり干からびた骨で満ちた平地の幻を見せられ、「これらの骨は生き返ることができるだろうか」と神から問われます。
干からびた骨が生き返ることなどありえないのですが、エゼキエルが「神にはできる」と信じて答えました。神がエゼキエルに骨が生き返るように預言させると、骨は肉が付き、息を吹き返し、大集団となりました。
この幻は、捕囚となったイスラエル人が「私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた」と絶望している様子を表していたのだと神は語られます。しかし、干からびた骨が生き返ったように、イスラエル人も生き返ったようになり、祖国に帰れると語られるのです。
私たちも、干からびた骨のように希望を持てない状況があるかも知れません。しかし、神にとって不可能はなく、もしも望まれるなら完全に死んで干からびた骨さえ生き返らせ、いのちの息を吹き込むことができる方なのです。
2023年、私たちの干からびた骨だけを見るのではなく、全能の主の可能性を信じ、期待して歩ませていただきたいと願います。
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