礼拝説教 要約と音声


礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。

2025年6月22日

キリストは自由を得させるために

ガラテヤ書5章1-6節

 

 


2025年6月15日

この方以外には

使徒4章1-12節

 

ペテロとヨハネの神殿での癒しのわざとメッセージで、多くの人がイエスを信じました(使徒3章)。宣教の働きが大きくなるにつれ目立つようになり、祭司長たちが二人を見に来ます。サドカイ人が否定している死者の中からの復活を教えていることに苛立ち、二人を捕えて翌日まで留置しました。

翌日になって指導者たちが勢ぞろいして二人を尋問します。「何の権威によって奇跡を行ったのか」という質問でした。それをチャンスととらえて、ペテロは奇跡を「良いわざ」と表現し、何によって癒されたのかとポジティブに言い換えます。尋問する側は、二人が恐れて震え上がる

ことを期待していたかも知れませんが、恐れるどころかそれこそ伝えたかったことだと言って、尋問への答弁という範囲を超えてメッセージし始めるのです。

あなた方が十字架につけたイエスを、神がよみがえらせ、病人を癒やす奇跡を行う力と権威を与えられた。このイエスこそ旧約聖書で預言されていた、唯一無二のお方であると大胆に語りました。それは、ペテロが聖霊に満たされたからできたことでした。

神は、信じる者に力を与えて、ご自分の働きのために豊かに用いて下さる方なのです。

 


2025年6月8日

イエスが救い主とは

使徒3章17-26節

 

ペテロは3章12節から記されているメッセージで、生まれつき足の不自由な人を癒やした力は、あなた方イスラエル人が十字架につけたイエスから来ていると語りました。17節からは、その救い主を十字架につけるという愚かな間違いが無知ゆえであり、それゆえに間違いに気づいて悔い改めるようにと勧めます。そうするならば罪が拭い去られるのだと。

なぜそんなことが起こるのかと言うと、このイエスが神によって遣わされた救い主だったからです。そして神の御心に従って苦しみ十字架につけられたのです。それは旧約聖書の時代から何度も預言されてきたことでした。

イスラエルの父祖アブラハム、偉大な指導者モーセ、その後の預言者たちも、救い主であるイエスの事を預言してきました。

このイエスが、あなた方を悪から立ち返らせて、祝福にあずからせて下さる。これはまずイスラエル人に語られましたが、イエスを信じて救われるという恵みは、全ての人に及ぶのです。


2025年6月1日

信仰のゆえに

使徒3章11-16節

 

神殿に行って生まれつき足の不自由な人を癒やしたペテロとヨハネの所に、その奇跡に驚いた人たちが駆け寄って来ました。その集まった人々に対してペテロは、どうして驚くのか、自分たち2人が癒したように勘違いしているのか、と尋ねます。驚いて集まって来た人たちに、癒しの原因である救い主イエスの事を語り始めました。

イスラエル人たちが、ピラトの判決に反対して十字架刑を要求し、人殺しを赦免していのちの君である主イエスを殺したこと。そのイエスを、神はよみがえらせたこと。自分たちはその証人だと語ります。

この方が救い主であり、この方に力があり、この方を信じる信仰がこの生まれつき足の不自由な人を癒やす

力となったのだと説明します。単に足が治って歩けるようになっただけでなく、完全なからだにしたのだと。

ペテロは自分が、主イエスのしもべであることが良く分かっていましたので、迷いなく、語るメッセージにも力がありました。私たちも、このイエスを信じる信仰によってその力を経験したいと願います。そして自分のアピールではなく主イエスの愛と恵みを伝える者でありたいと切に願います。


2025年5月25日

苦労する者と共に

エペソ書6:4、詩篇34:18 

 

子育ては年々難しくなってきているかも知れません。昔に比べて情報があふれている分、逆に正解が分からないということが言えるのではないでしょうか。そういう状況で、私たちの子どもたちが健全に成長していくために、何が必要なのでしょう。

エペソ書6:4では、子どもたちを怒らせてはいけないと書かれています。これは子どもの機嫌を伺いなさいということではなく、子どもが感情的にならないように助けるという事です。感情的になったら、何がいいことで正しいことかというのが分からなくなってしまいます。また、子どもは大人以上に感情をコントロールできないので、大人が助けてあげる必要があるのです。人は頭で正しいと思うことではなく、感情に動かされて行動するので、特に子どもにそのような支援が必要です。

そのように子どもに接したいと思いながらもできないのが、親や大人の現実ではないでしょうか。だからこそ神様は、私たちと共にいて、助け下さるのです。心の打ち砕かれた者、霊の砕かれた者とは、悲しみ、がっかりし、自分ではできないと感じている者です。これは子どももそうであり、子育てをする大人もそうです。そういう時に、神に頼っていいのです。神は必ず助けてくださいます。


2025年5月18日

私にあるものをあげよう

使徒3章1-10節 

 

最初の教会、生まれたての赤ちゃんのような教会で、毎日人が主イエスを信じて救われ、一つとされていきました。その時期にペテロとヨハネが祈りの時間に神殿に行ったところ、生まれつき歩けない人と出会いました。

彼はこの二人に施しを求めたところ、二人は「金銀はないが、私たちにあるものをあげよう」と言って、イエスの権威によって彼を癒やしました。金銀よりも素晴らしいものを施したのです。

癒やされた人は躍り上がって立ち、飛び跳ねながら神を賛美し、二人と一緒に神殿に入って行きました。生まれつきの障害が癒された、圧倒的な奇跡です。彼はどれほど喜んだでしょうか。

それを見た人は、彼が長年宮で施しを求めていたことを知っていたので、ものも言えないほど驚いたと記録されています。それがどれほどの奇跡かが良く分かったからです。

癒やされた人は、何とか生活できるようにとお金の施しを求めていましたが、神はその根本の問題を解決する力を持つ方なのです。

 


2025年5月11日

最初の教会

使徒2章41-47節

 

ペテロの大説教を聞いて「私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねたユダヤ人たちが、悔い改めてその日だけで3000人洗礼を受けたと記録されています。その彼らがまず何をしたのかと言うと、使徒たちの教えと、交わりと、パンを裂く(聖餐)と、祈りでした。彼らはその事に専念していました。教会に集って私たちが行うのは、今もこの4つの事に集約されます。 

そのように本当に大切なことに専念していた彼らの特徴は、「一つである」ということでした。みな一つになって財産を共有し、必要に応じて分配しました。また心を一つにして毎日宮に集まりました。そして周りから好意を持たれて毎日救われる人が起こり、新しく加わった人たちも一つになって行ったと記されています。 

人間の罪深さを考えると一つになることは難しいはずですが、神が一つにして下さいます。また、この事は実際に集まることの大切さも教えています。私たちは、実際に集まってみことばを聞き、兄弟姉妹で交わり、聖餐式にあずかり、共に祈ることが必要です。そうすることで、教会がキリストの教会であることができるのです。 


2025年5月4日

私たちはどうしたらよいでしょうか

使徒2章14-40節

 

この言葉は、ペンテコステの聖霊降臨の出来事の後でペテロが語ったメッセージを聞いた人々が、不思議に心を刺されて、口から出た言葉でした。 

この出来事は主イエスの十字架と復活からおよそ7週間後の事です。彼らは「イエスを十字架につけろ!」と叫び、異邦人の力を借りてイエスを十字架につけました。

遺体がなくなったことについては、公式には弟子が盗んで行ったと発表されましたが、本当にそうだったのでしょうか。彼らは、自分たちの言動を後悔する思いと共に、十字架と復活の出来事を覚えていたのではないでしょうか。人は、自分の罪を完全に忘れることはできません。だからこそ、ペテロのメッセージは彼らの心に深く刺さったのだと思います。それは神ご自身が彼らの心に働きかけられたからでもあるでしょう。 

その問いに対して、ペテロはこう勧めます。罪を赦していただくためには、その罪を悔い改め、イエスを救い主として信じ、その証しとして洗礼を受けなさいと。罪は赦されなければならないのです。赦されなければ、本当の解決はないのです。 

私たちも「どうしたらよいでしょうか」と感じる瞬間があるはずです。その時こそ、罪を認め、悔い改め、イエスを救い主と信じることが、真の解決となります。罪が赦される幸せを、ぜひあなたも経験して下さい。


2025年4月27日

私の主、私の神よ

ヨハネ20章19-31節

 

24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 

25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。 

26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 

27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 

28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」 

29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 

30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。 

31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。 


2025年4月20日

イエスの復活

マルコ16章1-8節

 

イエス・キリストの死と復活は聖書の中心です。ここまで、イエスが自ら十字架に突き進まれた姿を見てきました。今日の箇所では、死んで葬られたイエスがよみがえられた事がはっきり語られます。 

安息日が明けた日曜の早朝に、女性の弟子が墓に来ます。急いで埋葬されたイエスのお体に油を塗るためでした。よみがえられるとは全く考えておらず、入口の石を誰かどけてくれるか心配しながらでした。 

墓についてみると石が転がしてあるのが見えて驚き、墓に入るとまばゆい衣を着た青年(み使い)がいることに驚き、語られた内容にも驚きます。イエスがよみがえられたので、ここにはおられないというのです。見ると確かに墓は空でした。 

勇気を出して墓に来た女性の弟子たちでさえ、イエスがよみがえられることは理解していませんでした。そこにご遺体があると思って来たのです。しかし、そこにはおられませんでした。人間が理解できる範囲、私たちが願う範囲に、神は閉じ込められるような方ではないのです。

私たちの想像をはるかに超える力と、私たちへの愛を持っておられる方です。イエスの復活はその事を教えているのです。 


2025年4月13日

イエスの埋葬

マルコ15章42-47節

 

イエスが十字架で死なれた後に埋葬されますが、この場面にしか登場しないアリマタヤのヨセフという議員が重要な役割を果たします。 

彼はイエスの弟子であることを隠していましたが、勇気を出してピラトの所まで行き、遺体の下げ渡しを願いました。当時の社会的には、リスクやマイナスしかない行動です。彼は有力な議員だったので、ピラトに直接コンタクトできたのでしょう。 

ピラトはイエスがもう死んだのかと驚きましたが、確認した上で遺体を下げ渡します。安息日まで時間がない中で、ヨセフは急いで亜麻布を買ってイエスを包み、岩を掘って作った新しい墓に納め、入り口には岩でふたをしました。主イエスが完全に死に、完全に埋葬されたのです。すべての望みが消えたかのように感じたでしょう。 

しかしその時に、女性たちはイエスがどこに納められるか、よく見ていました。復活の出来事がすでに始まっていたのです。 


2025年4月6日

聖霊降臨

使徒2章1-13節

 

主イエスが昇天された後の五旬節(ペンテコステ)の祭りの際に、主イエスが約束された奇跡が起こります。天に帰られた主イエスの代わりに、助け主としての聖霊が下られたのです。 

激しい風のような響きと、炎のような舌が現れ、そこにいたクリスチャンたちの上にとどまりました。それが聖霊のしるしだったようで、その人たちが聖霊に満たされ、外国語で話し出したというのです。 

そこにいた、外国生まれのユダヤ人たちは、自分の母国語が語られるのを聞いて大変驚き、意味が分からない人は彼らが酔っていると誤解したくらいでした。 

突然外国語を話したことが驚きですが、それよりも大切なことは「神の大きなみわざを語った」ことです。聖霊に満たされる時に与えられるのは、外国語を語る能力ではなく、福音を語る力です。この出来事以降、神を信じる人は聖霊が共にいて下さるようになり、福音が全世界に伝えられて行きました。 

私たちも、喜びをもって主イエスを伝えるようになれます。聖霊に満たされることを求めていきましょう。 


2025年3月30日

イエスの死にざま

マルコ15章33-41節

 

いよいよ、主イエスが十字架で息を引き取られる場面です。闇が全地を覆い、3時間続いたとあります。とてつもなく不気味な、どんなことが起こるか不安になるような状況だったでしょう。 

その中で主イエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばれます。これは詩篇22:1のことばそのもので、神に捨てられた者としての苦しみの叫びです。主イエスがこう叫ばれたのは、私たちの罪を一身に背負って、私たちの完全な身代わりとして死ぬためでした。 

そして最後に再び大声をあげて息を引き取られますが、その時に神殿の幕が真っ二つに裂けます。これは、神と人とを隔てていたものが取り払われ、信じるものが直接神に近づけるようになったことを表しています。 

それらを見ていた百人隊長が、「この方は本当に神の子であった」と思わず口に出してしまいます。そんなことを言ったら何を疑われるか分からないのに、思わず出てしまったのでしょう。それは、見捨てられた者でありながらも、イエスが十字架上で尊厳を失わない、立派な死に

ざまに心から感心したからです。これらすべてから、この方こそが本当の救い主なのだと分かるのです。 


2025年3月23日

イエス十字架につけられる

マルコ15章16-32節

 

ローマ総督ピラトからローマ兵に引き渡されたイエスは、十字架につけられる前からさんざんあざけられます。

ローマ兵たちは、「ユダヤ人の王」という罪状から、衣や冠、敬礼など王に対する態度で馬鹿にし、暴行し唾を吐きかけます。 

十字架にかけられてからは、群衆も、祭司長や律法学者たちも、「十字架から降りて自分を救え」とか「十字架から降りてみろ。そうしたら信じるから」とあざけります。偉そうなことを言いながら、お前にはそんな力はないだろう、と言うのです。 

イエスは、今すぐにでも十字架を降りることができる力を持ちながら、何も言い返さず、その苦しみに耐え続けられました。なぜなら、十字架によって私たちの罪の身代わりとして死ななければ、私たちの救いはないす。力がなかったのではなく、救いのために必要だから十字架から降りられなかったのです。 

私たちのためにこの苦しみを受けて下さったイエスを、自分の救い主として信じることができますように。 


2025年3月16日

総督ピラトの忖度

マルコ15章1-15節

 

主イエスはゲツセマネで捕らえられた後、夜中に最高法院に調べられました。正式には夜が明けてから最高法院で有罪とし、祭司長たちは意気揚々とピラトの元に主イエスを連れて行きます。 

祭司長たちは多くの事で主イエスを訴えますが、ここでも主は黙ったままで釈明せず、ピラトはその姿に驚きます。人間の訴えをものともしない姿です。 

次に、過越しの祭りの恩赦について語られます。祭司長たちが妬みで主イエスを引き渡したことを知っていたピラトは、無罪の主イエスを釈放しようとしますが、祭司長たちは群衆を扇動してバラバを釈放させます。ピラトも主イエスが無実だと分かっていながら、忖度で裁判を歪めてしまうのです。 

無実で無言の人への判決が、悪意を持って扇動された群衆の大声に影響されて、曲げられる。一見大声が勝ったように見えます。しかし、実は無言の主イエスが勝利されたのです。十字架で死ぬことで罪に打ち勝ちました。 

罪人の忖度さえも救いのために用いられ、敗北に見えることが実は勝利となる。神の御業の力とスケールの大きさを教えられます。


2025年3月9日

ペテロ痛恨の失敗

マルコ14章66-72節

 

主イエスが大祭司の家で不当な尋問を受けている時に、一度逃げたペテロが中庭にまで入って火に当たりながら、主イエスの様子をうかがっていました。

その時、大祭司の召使の女から、主イエスと一緒にい たと言われてしまいます。しかしペテロは、「何を言ってるのか分からない」と否定してその場を離れました。それでも召使の女が「この人はあの人たちの仲間だ」と言うので、ペテロは再び否定します。

今度は他の人たちが「ガリラヤ人なんだから、あの人たちの仲間だ」と言い出します。言葉のなまりで分かったようです。弟子だと分かると自分の身も危ういと思ったのでしょう、嘘だったら呪われてもいいと誓い始めます。

その時に、鶏が二度目に鳴きました。主イエスが「あなたはわたしを三度否定する」と言われた預言が実現したのです。その事に気づいたペテロは、泣き崩れました。

この大失敗を経験し、自分の無力さを経験したペテロは、主の弟子として成長していくのです。 


2025年3月2日

主をほめたたえる

申命記8章1-10節

 

新会堂最初の礼拝で、主がイスラエルの民を約束の地に導き入れられる時のみことばを選びました。最初に、神の祝福を受けるために神が命じられるすべての命令を守り行えと語られます。

その内容は、荒野の40年の苦しかった経験を覚えていよ、というものでした。その経験には二つの意味があり、一つは苦しみの中で神の命令を守るか、民の心を知るためだったと言われます。私たちは苦しい時に本音が出ます。苦しみの中で神に頼れるなら本物です。

もう一つは、自分ではどうしようもない試練の中で神が助け、必要を与えて下さる事を分からせるためだと言われます。なんと40年間、彼らの服は擦り切れず、足は痛みませんでした。それは神の訓練でもあり、それによって彼らは強くなれたのです。

そして用意周到に、約束の地に入ってからの事も語られます。満ち足りて神の助けはもう要らないと勘違いし、 神を忘れないように。満ち足りる事のマイナス面です。 「忘れる」のではなく「覚えて」いて、神に感謝してほめたたえるようにと命じられるのです。私たちも、苦しみとそ の中にあった恵みを覚えて、感謝をささげましょう。 


2025年2月23日

あなたには価値がある

イザヤ書43章4節

 

聖書を通して神様が語っておられるメッセージの最も大切な一つが、「あなたには価値がある」ということです。

「私の目には」という言葉から、深い意味があります。 他人が私をどのように評価しようが関係なく、神は私を愛のまなざしてみて下さるという事です。そして、他人の目が気になる私が、それに影響されて自分でも自分の事を愛せないとしてもそれも関係なく、「あなたは高価で尊 い」と語り掛けて下さるのです。私たちは、自分で頑張って、自分の価値を証明しなくてもいいのです。神は「私の 目にはあなたは高価で尊い」と語って下さるのです。

それゆえに、神は主イエスを私たちの代わりにすると 語られました。それが主イエスが地上に来られる700年 も前に語られているのです。愛には犠牲が伴いますが、父なる神はご自分より大切なひとり子の神、主イエスを犠牲にされました。主イエスは、ご自分のいのちを犠牲にされました。それが、神が私たちを愛して下さっている証拠なのです。

あなたには価値がある。このメッセージを受け取ることができたら、私たちの人生はどんなに素晴らしいでしょうか。神様の語り掛けがあなたの心に届きますように。

この大変な状況は御言葉によって預言されていたことに気づき、使徒としてふさわしい条件をあげつつも、最後は神が選んで下さるように祈り求める。そのようにして、リーダーである使徒が選ばれたのです。 


2025年2月16日

救い主である告白

マルコ14章53-65節  

 

ゲツセマネの園におられる主イエスを襲って捕らえた祭司長・律法学者・長老たちは次に、主イエスを死刑にするための証言を探しました。死刑ありきの不当な取り調べを行なったのです。

最高法院全体でも死刑にする証拠は見つかりません でした。多くの人に偽証させても、嘘のすり合わせが不十分で証言が一致しません。業を煮やした大祭司が「お前は神の子キリストなのか」と尋ねた時に、主イエスはそれまで秘密にしておられたこの事実、彼らがもっとも欲しがっていた証言を、ご自分から語られたのです。

主イエスを陥れようとする者たちの企みが全く成功しなかったのに、主イエスご自身が神の子であることを宣 言されたことによって、死刑が確定したのです。黙ってい れば十字架にかけられなかったのに、あえて自らが、救い主であることを告白されたのです。

これは、主イエスが十字架にかけられたのが、彼らの悪巧みから逃れられなかったのではなく、主イエスのご意思だという事です。そして、十字架にかかって私たちを救うのが救い主の御業なのだという事を表しています。

主イエスは、私たちのために自ら十字架向かって行き苦しみを全うされ、救いを成し遂げ、そしてもう一度来て救いを完成して下さるお方なのです。


2025年2月9日

たとえそうでなくても

ダニエル3章1-7、13-30節  

 

BC600年頃イスラエルはネブカドネツァル王に攻撃され、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4少年がバビロンに連れて来られました。ベルテシャツァル、シャデラク、メ シャク、アベデ・ネゴと名付けられエリート教育を受けます。

ネブカドネツァル王が巨大な金の像を建て、ひれ伏して 拝まない者は炉に投げ込まれると命令を出した時、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人が拝んでいないと密告 する者がいました。とがめられた3人は、「本物の神が炉の中から救い出して下さる。たとえそうでなくても、私た ちは金の像を拝まない」と宣言し、炉に投げ込まれます が、神が奇跡的に炉の中から救い出して下さいます。

このように信仰ゆえに迫害される国が現代でも驚くほど多くあります。また、国などが神でないものを無理に礼拝させようとする事が日本でもあります。独裁国家は指導者を神格化します。 私たちの信仰の良心が侵されないため、全ての人の生きる権利が守られるため、私たちの住んでいる国の指導者のために祈る必要は大きいのです。 

この大変な状況は御言葉によって預言されていたことに気づき、使徒としてふさわしい条件をあげつつも、最後は神が選んで下さるように祈り求める。そのようにして、リーダーである使徒が選ばれたのです。 


2025年2月2日

使徒とは

使徒1章15-26節 

 

今日の箇所では、12使徒の一人でありながら主イエスを裏切ったユダの代わりの使徒を選んでいます。ゆだねられた働きを進めるために、単に補充するだけでなく、問題を振り返ったうえで、それが預言の成就であることを確認し、神の御心を求めて人選しました。 

まずペテロが120人の弟子たちの中で、欠員補充の必要を語ります。預言されたとおりの事が起こったので、みことばのとおりに後任を選ぶ必要があるのだと説明します。 

その資格は、主イエスの働きの初めから使徒たちといつも一緒にいた人であることでした。使徒と一緒にいた弟子ですから、目撃証人であると同時に熱心な弟子でもあります。それが使徒にふさわしい条件でした。 

2人の候補者を挙げて、決定はくじを引きました。偶然に任せるという事ではなく、祈りつつ、そこに御心がなされることを信じて、神が選んで下さるようにと願ったのです。 

この大変な状況は御言葉によって預言されていたことに気づき、使徒としてふさわしい条件をあげつつも、最後は神が選んで下さるように祈り求める。そのようにして、リーダーである使徒が選ばれたのです。 


2025年1月26日

秘密を見られる神

ヘブル4章12-13節  

 

去年は自民党の裏金問題や、有名芸能人のスキャンダルに伴うテレビ局の問題など、隠されていた大きな罪が明らかになりました。神の目にはそれらは隠しおおせず、いつか明らかになるのだと思わされます。 

まず私たちを調べるものは、神のことばである聖書です。鋭い剣以上に、私たちの心を調べ、良いものと悪いものとを見分けます。聖書の言葉はただの言葉ではなく、生きていて、力があるからです。 

その聖書の言葉を記され、今も語られる神は、私たちが隠していることも全て知っておられます。神の目には、全てが見えるのです。私たちは、その神に弁明しなければならない時が来ると言われます。 

私たちは、神に対して、弁明できるだけのものを持っていません。罪を隠しているという点で、全ての人は同類です。その私たちのために主イエスが十字架にかかり、身代わりとなって罪の罰を受けて下さったのです。 

神に監視されているように感じるのではなく、神に愛されていることを感じていただきたいと願います。


2025年1月19日

主イエスの逮捕

マルコ14章43-52節  

 

ゲツセマネの園での徹夜の祈りの最後に、イエスを裏 切ろうとしていたユダが現れます。祭司長たちに差し向 けられた武装した群衆と共に、暗がりでも誰がイエスか 分かるよう教える合図まで事前に打ち合わせて。なんと その合図は、親愛を示す「口づけ」でした。ユダの良心が 本当に麻痺していたことをうかがわせます。

逮捕に抵抗して弟子の一人が剣で大祭司のしもべに 切りかかり、耳を切り落としてしまいます。主イエスは、ご 自分が毎日宮で教えていた時には何もせず、夜中に強 盗を捕まえるような装備で来た彼らの異常さを指摘され ました。しかし抵抗はせず、聖書が成就するためと説明さ れたので、弟子たちは全員逃げてしまいました。

ある青年が主イエスについて行こうとして捕らえられ そうになり、身にまとっていた亜麻布を脱ぎ捨てて裸で 逃げたというエピソードは、主イエスを守るべき弟子たち が何もできなかったことを際立たせています。

ユダの裏切りと、使徒たちのふがいなさすら織り込ん で、主イエスは旧約聖書の預言通りに十字架へと進んで 行かれるのです。裏切るような罪人をも救うために。 


2025年1月12日

イエスの苦しみの祈り

マルコ14章32-42節

 

ゲツセマネはエルサレム東のオリーブ山にありました。 11人の使徒と一緒に夜遅くにそこに着き、主イエスは3 人だけ連れて少し先に進み、もだえ苦しまれます。そして 彼らに目を覚ましているように伝え、さらに進んで行って ひれ伏して祈られました。

その祈りは、できるならこの後の十字架の耐え難い苦 しみを受けずに済むようにと言う正直な思いの告白でし た。同時に「しかし、わたしの望むことではなく、あなたが お望みになることが行われますように」と、恐怖に打ち勝 ってみこころを求める祈りでもありました。

主イエスが血のにじむような祈りをしておられる時に、 しかし弟子たちは寝てしまっていました。肉体は弱い。だ からこそ余計に、誘惑に陥らないように、目を覚まして祈 る必要があります。主イエスが3度目に祈って戻って来ら れると、弟子たちはまた寝ていました。

私たちを祈れないようにする誘惑は、何でしょうか。考 えてみてください。

その誘惑に打ち勝って、祈るためにはどうしたらいい のでしょうか。神の語り掛けをしっかり受け止め、祈れる ようにと祈り求め、励まし合って心を一つにして祈る事で はないでしょうか。


2025年1月5日

主イエスの昇天後に

使徒1章12-14節  

 

オリーブ山の上から主イエスが天に昇って行かれるという、途方もない奇跡を経験した後で、使徒たちは日常に帰りました。エルサレムで泊まっていた部屋に帰りました。しかしその日常は、前と同じではありませんでした。

違いの一つは集っている人たちです。使徒は全員そろって、使徒以外にも女性の弟子、イエスの母マリア、イエスの兄弟たちが集いました。彼らはいつも心を一つにしていたとあります。一つになれないはずの面々が同じ場所に集まり、一つにされたのです。

違いの二つ目は、一つにされた彼らがしていたこと、祈る事でした。主イエスから「エルサレムを離れず、父の 約束の成就を待ちなさい」と言われ待っている時に、同じ場所に集まって、顔と顔を合わせて、一緒に祈ったのです。個人で祈ることはもちろん大切ですが、一緒に集まって、心を一つにして祈ること。それがみことばに従う事でした。

現代の私たちも、ともに集まって、心を一つにして祈ることを大切にしたいと思います。ぜひ、教会の祈祷会に共に集い、あるいは何か他の形でも集まり、みことばを分かち合い、祈りましょう。みことばに従うなら、そこに必ず神の祝福があります。