礼拝説教 要約と音声


礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。

2022年5月15日

実を結ぶ心

マルコ4章1-20節

 

この箇所は、有名な「種まきのたとえ」です。珍しく、たとえの解説を主イエスご自身が行っておられます。

ここで気づくことは第一に、「聞きなさい」という言葉です。大切なことを教えるのでよく聞くようにと語り、聞く姿勢があるかどうかを問うておられます。せっかくいいことを聞いても、聞く耳を持たなければ聞かないのと同じです。主イエスの言葉の価値に気づきたいです。

次に例えの内容ですが、種が神のことばで、蒔かれた土地がそれぞれの人の心を表しています。道端の心はすぐにみことばがどこかに行ってしまう。岩地の心は喜んで受け入れるが、根がないので試練に遭うとつまずく。

茨の心は思い煩い、惑わし、欲望によってふさがれて実を結ばない。それぞれよくある事ですし、もしかしたらこれらの方が多いかも知れません。

唯一、良い地の心は、みことばを受入れ、30倍、60倍、100倍の実を結びます。その人の人生が実り多いものに

なり、他の人の実りにも貢献できるのです。その秘訣は、みことばを聞いて受け入れる事です。


2022年5月8日

一つの体のように

ローマ12章3-8節

 

奉仕という事を考える時に、大切な点がいくつかあります。まず第一に、私たちは恵みを与えられた者、主イエスの救いをいただいた者であるということです。まず恵みをいただいたので、私たちの価値観も変えられます。そしてその恵みに応えて生きることはある意味で当然のこととなります。

第二に、その与えられた恵みの中には、私たちの賜物も含まれるということです。私たちは、一人一人違う賜物が与えられていて、その個性をいて奉仕することが基本です。一人一人に、神からいただいた良いものが必ず

あるのです。同時に、時には成長のために苦手なことをするよう導かれることもあります。

第三に、一人一人は違う存在なのですが、私たちみんながまるで一人の人の体のように一体であるということです。役割は違いますが、有機的につながって互いに補い合い、支え合う、だからこそ強くなれる、分けようのない一人一人なのです。

この様に私たちが主に仕えていく時に、キリストの体なる教会が成長して行きます。新会堂という建物を建てていくと同時に、キリストの体である教会も建て上げられて行きますように。

私たちは、どんな罪をも赦していただけます。どれほど 大きな神の御心でしょうか。しかし、故意に心の目を閉ざし、聖霊の導きを拒み、自分を正当化するならば、自ら 救いの道を拒むことになります。

主イエスは、それを指摘されたのでした。 私たちが神の救いを拒むことがありませんように。


2022年5月1日

主イエスの家族に

マルコ3章31-35節

 

イエスのうわさを聞いて「おかしくなった」と連れ戻しに来た身内のうち、母と兄弟たちがやって来て、外に立って主イエスを呼びました。それを聞いた主イエスは「私の母、私の兄弟とはだれでしょうか」と言われました。

ご自分の働きを理解せず、うわさを信じて連れ戻しに来た家族を、「それは私の家族ではない」と言われているようです。冷たく感じる人もいるかも知れません。

では誰が主イエスの家族なのか。ご自分の周りに座ってみことばを聞き、癒しを求めている人たちを見回して、彼らに「私の母、私の兄弟です。」と言われました。

主イエスの周りに座っていた人たちは、特別に信心深い人たちだったのかというと、そうとも言い切れません。教えよりもとにかく癒やしてほしいと思って近づいた人もいるでしょう。主イエスが十字架につけられる時には、12弟子でさえ主イエスを裏切って逃げてしまったのです。でも、彼らを見回して、「誰でも神のみこころを行う人が、私の母、兄弟姉妹なのだ」と言われました。

主イエスを求める人たちの動機が何であれ、主イエスのもとに行けば、主イエスがが助けてみこころを行う人へと成長させて下さるのです。 主イエスの兄弟姉妹、母としていただけるのです。


2022年4月24日

赦されない罪?

マルコ3章20-30節

 

主イエスがカペナウムで拠点にしていた家に戻られると、群衆が集まって来て食事もできない忙しさでした。そこまで人々に奉仕している姿を誤解したのか、人々が主イエスがおかしくなったというので、身内の者が連れ戻しに来たようです。身内なのに、うわさに惑わされて。

また、エルサレムから下ってきた律法学者は、主イエスが悪霊に憑かれ、その力で霊を追い出しているとすら言います。実際の場面を見てないのでしょうか。

主イエスはそれに対して、第一に国や家が分裂したら 立ち行かないので、悪霊の力で悪霊を追い出すのでは ないと語られます。第二に、より強い力でないと霊は追い出せないので、この力は神の力であると語られました。 その神の力、神の奇跡を悪霊の働きであると言い募ることは、聖霊を冒涜する罪であると責められます。

私たちは、どんな罪をも赦していただけます。どれほど 大きな神の御心でしょうか。しかし、故意に心の目を閉ざし、聖霊の導きを拒み、自分を正当化するならば、自ら 救いの道を拒むことになります。

主イエスは、それを指摘されたのでした。 私たちが神の救いを拒むことがありませんように。


2022年4月17日

死よりも強いもの

ヨハネ20:19-31,11:25 

 

イースターは主イエスの復活を記念し祝う日です。しかし、死んだ方がよみがえるとは信じがたいことであり、 最初は弟子たちも信じられませんでした。

主イエスが十字架につけられた3日後の日曜日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて、息をひそめて隠れていました。主イエスが復活されると信じてなかったのです。しかしそこに主イエスが来て下さり、弟子たちは大喜びしました。

その場にいなかったトマスという弟子は、「この手で傷 口に指を入れるまで決して信じない!」と言い張りました。 そのトマスのために、主イエスはもう一度来て、「信じな い者にならないで、信じる者になりなさい」と語ってくださいました。それでトマスも信じたのです。

死より強いものなどないと、私たちは誤解しています。 しかし、死に打ち勝ち、復活された方がおられる。弟子たちでさえそれを信じられなかったのですから、私たちが すぐに信じられなくてもある意味で当然です。

でももし信じられたら、どんなに心強いでしょう。最も 恐ろしい死を恐れずに済むのです。見ずに信じる者は幸いです。 


2022年4月10日

主イエスの十字架

ヨハネ19:1-7、13-19、28-37

 

主イエスが十字架にかかられる場面は、4つの福音書にそれぞれ記されており、目撃した人だからこそ書けるリアリティに満ちています。そこに表れているのは、人間の 醜さと、主イエスの崇高さです。

主イエスを鞭打った兵士たちは、相手が抵抗できないのをいいことに、散々馬鹿にし、顔を平手でたたきます。 無抵抗な無力なものをなぶる、人間の罪深さ。ロシアがウクライナで行っていることと重なります。

総督ピラトは、主イエスが無罪であることを知りつつ、民衆を恐れ、皇帝に歯向かうと誤解されることを恐れて、 最終的に無実の人を十字架につける決定をします。恐れによって、明らかに判決を曲げたのです。

それに対して主イエスは、イザヤ書53章に預言されて いる通り、静かでした。聖書の預言の通りに「わたしは渇く」と言われ、脇腹を槍で刺され、足の骨を折られず、絶命して墓に葬られました。神の壮大な救いのご計画の中で、命をささげられたのです。

それは、この場面で醜さをさらした罪人たちだけでなく、 私たちの罪のためでもありました。 


2022年4月3日

十戒に学ぶ礼拝

出エジプト記20章1-11節

 

有名な十戒は、神の民として生きるガイドラインのよう なものですが、その中で第一戒から第四戒までは礼拝 についても教えられます。

第一に、主なる神だけが礼拝されるべき方であるとい うこと。神というお方に並ぶ者はないく、その神を第一と することは神を礼拝することなのです。

第二に、その神にふさわしい礼拝は、形あるものを拝 むのではなく、言葉によってなされるという事です。説教 という形で神が語られ、私たちも神に賛美をささげて祈 る、それがふさわしい礼拝なのです。

第三に、私たちが神の名を口にする時、そこには誠実 さと恐れが必要です。神は私たちの心をご覧になります。 神の前での悔い改めが、ふさわしいささげ物なのです。

第四に、礼拝にふさわしい時は安息日です。主の日で ある日曜日を丸一日主にささげ、主のために用いる。教 会での礼拝に出席する(現在ではオンラインもあります)。 それが安息日を聖なるものとすることであり、私たちが 聖なる者とされる道です。

このように、私たちがささげたい方法ではなく、神にふ さわしい礼拝をささげる。それが真の礼拝であり、その 礼拝をささげる中で私たちは成長し、祝福をいただくの です。 


2022年3月27日

見えない希望を見る

ローマ8章24-25節

 

2月24日までは、毎日のコロナの陽性者数が大きな関心でしたが、ロシアによるウクライナ侵略戦争開始以来、その他のさまざまなニュースが吹き飛んでしまった感があります。この大変な時に希望を見出すという事は、とても難しいことですが、不可能ではありません。それは 主イエスを信じる信仰によって可能になります。

今日の聖書の箇所には、「目に見えているものを望みとは言わない。まだ見てないから望みであり、この望みに よって救われる」と書かれています。

目の前に天を覆っている黒雲に圧倒されるのではなく、 雲の上には太陽が輝いているという事実を認めることが必要です。きっと明日は良くなる、と根拠なく信じる楽観主義ではありません。たとえ世界が暗闇に覆われることがあっても、すべての暗闇より神の光の方が現実的だという事、神の愛は死よりも強いことを知ることから、希望が生まれます。(ナーウェン『いま、ここに生きる』)

そうするなら私たちは、境遇の犠牲者としてではなく自由な一人の人間として、楽観主義によってではなく目に見えない希望を心の目で見て、生きることができます。 この心強さを、この希望をもって生きる幸せをご一緒に経験したいと切に願います。


2022年3月20日

使徒の召し

申命記1章6-7節

 

申命記は、エジプトを出て約束の地カナンに入る直前に、モーセを通して神が語られたメッセージです。その1 章は、出エジプトの最初の1年の事が語られます。

イスラエルの民は、エジプトを出て約束の地に向かう 途中、ホレブ(シナイ山)で約1年とどまりました。彼らは 雲の柱に導かれて進みましたから、とどまったというより、神にとどめられたのです。その間に、あの有名な十戒を与えられ、礼拝のための幕屋を作り、礼拝の方法を学び、 神の民として整えられました。この後に40年近く続く荒野の旅の備えをしたのでした。

神は、時に、御心を信じて踏み出した私たちの歩みをとどめられる場合があります。それはみこころでなかったのではなく、整えられるためでもあるのです。

そして私たちが整えられ、時が来たら、「向きを変えて、出発せよ」と語り、次のステップへと導いて下さいます。

イスラエルの民が、1年間整えられ、雲の柱が上ったら すぐに神に従って出発したように、私たちも「向きを変えて、出発」したいと思います。コロナの中での教会の歩みも、新会堂建設も、神の導きに従って。


2022年3月13日

向きを変えて

マルコ3章7-19節

 

主イエス様がカペナウムで安息日に片手の麻痺した人を癒やした後、弟子たちと共に湖の方に退かれました。 退かれたのに、非常に大勢の人が押し寄せてきたので、舟を用意しなければいけないほどでした。距離を取って、「教える」ためです。また、汚れた霊にご自分の事を知らせないように厳しく戒められたのも、そのためでした。

次に、主イエスは山に登って祈り、12人の使徒を選ばれました。それは彼らが、主イエスのそばで学び、その上で福音を伝えるために遣わされ、悪霊を追い出す権威を与えられるためだったと言われます。主イエスが本当にしたい、大切なことを任せる人を選ばれたのです。

しかし、12使徒は決して理想的な弟子たちではありませんでした。すぐにカッとなってしまう短気な兄弟、正反対の立場(保守と革新のようなもの)の人、さらには後に 主イエスを裏切るイスカリオテ・ユダまでいたのです。

しかし主イエス様にとっては、彼らが「望む者」でした。 ふさわしくない者をこんなに大切なことのために選んで用いられるのです。

私たちも、選ばれ、用いられます。ふさわしくない者がそばに置かれ、用いていただけるのです。


2022年3月6日

真の礼拝

ローマ12章1-2節

 

礼拝とは何かについて学ぶ時に、重要なみことばがこのローマ書12章。ここには、礼拝の前提と、礼拝とは何か、そしてその中で私たちがどう変わって行くのかが語られています。

まず前提は、神のあわれみです。神が私たちを心から あわれんで下さり、主イエスによる救いを与えて下さいました。私たちが自力ではどうすることもできないので、御子を送って下さったのです。その私たちが神を礼拝するのは当然です。

ふさわしい礼拝とは、私たち自身を神にささげて生きる生き方です。私たちは、礼拝式の中で自分が恵まれることを求めがちですが、礼拝とはそうではない。私自身をささげ物としてささげる事です。私の人生、日常生活に おいて神の御心に従って生きることが、礼拝なのです。

その際に、この世の罪深いやり方に合わせてはならないと言われます。神に敵対し、道徳的に腐敗したこの世 のやり方をこれ以上続けてはいけないのです。そうではなくて、心を新たに、神によって変えていただき、変えられ続けるのです。

聖霊の導きに従い続け、変えられ続ける者でありたいと願います。


2022年2月27日

神に期待して

イザヤ43章16-21節

 

日本人は、欧米などの諸外国と比べて、何かにチャレンジすることが少ないように思います。このコロナの2年間でさらにその傾向が強まった面があります。その私たちに、神が「考え方の枠を拡げて、チャレンジするように」と励ましてくださいます。

イザヤの時代は、イスラエル王国がその力を失い、大国に蹂躙されて滅ぼされる過程にありました。なすすべもなく、捕囚にされ、支配されるしかない。

そんな時に、神は「過去の栄光にとらわれず、今から私 が行うわざを見よ」と語られたのです。過去の成功体験は、それ自体は素晴らしいのですが、それゆえに発想や行動を狭める枠になる危険性があります。冒険をせず、 確実なことしかしなければ、神が下さった人生を充実して生きることは難しいでしょう。

神がなさることは、私たちの想像を超えたスケールで、 更新され続けるのです。その神の御業を期待して、自分の力や可能性の限界を勝手に決めてしまわず、祈りつつチャレンジすることができますように。


2022年2月20日

共に成熟して

エペソ4章11-16節

 

クリスチャンの成長とは何かと考える時に大切なのが、このエペソ書4章です。私たちのかしらであるキリストに向かって成長していくために、いろんな間違った教えや 悪質な教えに影響されず、愛をもって真理を語る事が大切です。

教えの正しさに関しては、神の御子、主イエス様に対 する信仰と知識において一つとなるようにと励まされます。信仰か知識かどちらかではなく、両方で一致する必要があるのです。枝葉の事や、ルールではなく、信仰と知識なのです。

キリストの身丈にまで成長すると語られますが、それは個々人として以上に、教会全体としてです。私たち全体が、一人の成熟した人のように統合され、一致を保つことが成熟だというのです。それは、感じ方や意見を押し殺すのではなく、各々が個性を生かしつつ、愛の内に建て上げられて行く事でもあります。

これは人間にとっては至難の業ですが、神がそれを助 けてくださいます。そのために、牧師たちが神によって選ばれ立てられているのです。

私たち一人一人が、かけがえのない存在として「キリストのからだ」と言われる教会の一部分となり、成長し、建て上げていくことができますように。


2022年2月13日

聖であれ

レビ記19章1-18節

 

レビ記の大きなテーマは「聖」です。それは、冷たい理論や規則ではなく、血の通った「愛」でもあるのです。

聖なる者でなければならないとの命令の後で語られ 事は、とても具体的でした。

農作物の収穫の際に、貧しい人や寄留者のために、あえて収穫物を残しておくこと。人との関係で、盗まず欺かず偽らないこと。雇う側が労働者を虐げたりかすめたりせず、賃金をその日のうちに払うように。体に障害を持った人を軽んじずに配慮するように。裁判に不正がないように、弱者にも強者にもどちらにも傾かないように。そして、身近な人との関係で憎まずに戒め、復讐や恨みを持 たない。

とても細やかな神さまの配慮を感じます。そして最後に「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と命じられます。これは新約聖書にも引用される、とても有名な命令です。聖なる者とは、人を愛する者なのです。

私たちは、教会にいる時や聖書を読むときだけでなく、日常生活の中でこの聖なる者となり、愛する者となる必要があります。そして、そのような社会になって行く事を願わされます。

主が私たちを変え、導いて下さることに感謝します。 


2022年2月5日

いのちを救うこと

マルコ3章1-6節

 

2章の最後で、安息日は人のためにあると言葉で教えた後、主イエスは3章では癒しの奇跡を通して安息日の本質を考えさせようとされます。

安息日に入った会堂に、片手が麻痺した人がいました。主イエスが癒すと予想して、人々が安息日破りの現場を押さえようとじっと見ていました。意地悪いことですが、人を責めるために人間がよくやることです。

それを知ったうえで、主イエス様はその人を真ん中に 立たせて、「律法は、安息日に命を救うことと殺すことの どちらを求めているか?」と問いかけられました。じっと 見ていた人たちに、本質に立ち返って考えるチャンスをくださったのに、それでも人々は黙っていました。

主イエスは怒り、頑なさを嘆き悲しみつつ、麻痺した人の手を癒やされました。この人はどれほど喜んだでしょう。 しかし彼の喜びも周りの喜びも描かれません。素晴らしい奇跡を目撃したパリサイ人は出て行って、どうやってイ エスを殺すか(!)の相談をするのです。

私たちは、主イエスの奇跡を喜ぶ側か、殺す相談をす る側か、どちらでしょう。そしてどちらにいたいですか?


2022年1月30日

これから後の栄光

ハガイ1章-2章

 

イスラエルの国が滅ぼされ神殿が破壊されたのが紀 元前586年。約70年後、神の預言通り民が帰国し神殿 再建がスタートします。また妨害にあって再度中断して いたところから、再スタートするのがハガイ書です。

神が語られたことは、第一に、神殿が廃墟のままなの に自分たちだけ立派な家に住んでいていいのか、という ことでした。当初は生活再建に必死でしたが、それを言 い訳に神殿再建を先延ばしにしていたのでした。

そこから信仰が奮い立たされて工事が再開しますが、 思わぬ理由で心が折れます。以前の神殿と比べて新し い神殿の規模が小さく、自分たちの働きに意味を見出せ なくなったからでした。しかし神は、これから後の栄光は、 先の栄光にまさる!と約束し励まして下さったのです。

水が低きに流れるように、人間も楽な方に堕落しやす いので、神は再度励まされます。この先の祝福を想像せ よと言われるのです。過去の失敗も現状のみじめさも関 係ない。神は祝福されます。私たちも同じく、祝福される のです。

わたしたちの歩みをよく考え、確信を受けましょう。


2022年1月23日

本当の自己実現

ヨハネ15章1-11

 

最近の教育では自己肯定感を高める事が大切とされ、 ほめて伸ばすように言われるそうです。また、仕事などを 選ぶ際にも「自分らしさ」「好きなことを選ぶ」という事が 重視されます。それで昔よりも幸せになっているかと言う と、そういう実感は薄いように思います。本当の意味で 自分らしく、自分の良さが輝くのはどういうことなのでし ょうか。

主イエスは私たちをぶどうの枝に例えて、私たちの人 生が実り多いものとなるために刈り込みが必要と語られ ます。ぶどうの枝は本当にどんどん伸びて行くので、良い 実を結ぶためには刈り込まないといけません。私たちに とっての刈り込みとは、自分の計画がうまくいかなかった り、しんどい経験をすることでしょう。豊かな実りを期待 できるなら、試練も乗り越えやすくなります。

また、主イエス様の愛にとどまるようにと語られますが、 それは主イエス様の戒めを守ることだと言われます。そ うするならば、キリストの愛の中にとどまり、豊かな恵み をいただけるのだと言われるのです。愛と戒めという組 み合わせにギャップを感じますが、それが事実です。

私たちが本当に自己実現していくためには、誠実な生 き方と、それを助けて下さる主イエス様の恵みが必要な のです。


2022年1月16日

安息日の主

マルコ2章23-28節

 

ある安息日(神を礼拝するために聖別された日)にイエス様と弟子たちが麦畑を通りながら、穂を摘んで食べ 始めました。おおらかな時代だという事ではなく、神様がそうしてよいと定めておられたのです(申命記23:25)。それをなぜパリサイ人が見とがめたかと言うと、それは安息日にしてはならない仕事をしたと考えたからでした。

それに対して主イエス様は、二つの点から答えました。一つは、彼らが尊敬しているダビデ王が行ったこととの 対比でした。麦の穂を摘むどころか、祭司しか食べては ならないパンを食べたのです。儀式的律法よりも人間の必要が優先される例でした。

もう一つは、神が安息日を定められた理由を考えるという事でした。人間が、あらゆる仕事をやめて、神を礼拝して神と交わり祝福を受けるために、安息日が定められたのです。先に安息日があって、それを守るために人間が創られたのではないのです。

そして、安息日を定めた方、神である主イエスは、安息日にも主であると宣言されました。

神が定めて語られる事の、理由や本質に目を留めることができますように。そして、それを定めた方が語られることを聞くことができますように。


2022年1月9日

新しい皮袋に入れる

マルコ2章18-22節

 

レビの家での祝宴の食事のすぐ後に、主イエスは人々から「断食しないのか」という質問を投げかけられました。 ご丁寧に、ヨハネの弟子たちやパリサイ人は断食してるのに、と比較までして。比較されるのはキツイです。

主イエスは2つの点で答えられました。一つは、今はその時ではないということです。結婚のお祝いで花婿と一緒にいる者が断食しないのと同じように、主イエス様が共におられるスペシャルな時に断食はふさわしくないと答えられました。

もう一つは、古い物の見方や考え方では、新しい良いものを受け入れられないという事です。古い布切れと皮袋に共通しているのは、硬直化です。時代が変わる中で、神は新しいことをされます。コロナと言う大変な事態の中でも、主の新しい御業がありました。私たちの心が古い布切れや皮袋のように硬直化していたら、神がなさる新しいことを受け入れられないのではないでしょうか。

主イエスを信じて生きる人生は、祝って楽しむ生き方です。かたくなにならず、主イエスと共に喜び、祝い、主の御業を楽しみに期待して生きて行きましょう。新しい皮袋のような心で。主はそのようにして下さいます。 


2022年1月2日

罪人を招くために

 

マルコ2章13-17節

 

主イエス様は、収税所に座っていたレビ(マタイ)を見て、「わたしについて来なさい」と声を掛けられました。彼の現状とは関係なく、彼が将来弟子として奉仕する姿をもご覧になったのでしょうか。(実際、マタイの福音書を書いています)。

そのレビの家で、主イエス様が取税人や罪人たちと一緒に大勢で食事をした時に、律法学者が抗議した言葉に対しても、驚くような答えをなさいます。「医者を必要とするのは病人であって、自分はその魂の医者である。自分が来たのは、正しい人ではなく罪人を招くためなのだ。」と言うのです。

罪人は、助けを必要としている。だから自分は医者として来た。同時に、その罪人が招かれて罪人でなくなる。ただの罪人ではなく、主イエス様のため、人々のために奉仕する有益な人に変えられる。自分はそのために来たのだと言われるのです。

主イエス様は、人の現状の愚かさ罪深さだけを見るのではなく、主イエス様によって変えられた後の姿をも見ることができ、その上で私たちを招いて下さるのです。

「わたしについて来なさい」との招きに応答しましょう。