礼拝説教 要約


礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。

2022年9月18日

主と共に冒険を

ヨシュア記1章1-9節

 

旧約聖書のヨシュア記は、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して40年後、いよいよ約束の地に入る時から始まります。最初の言葉は、「モーセは死んだ」でした。40年の間、民を導いた偉大な指導者が死んだ、もういない、という事実を認め、次の指導者がその責任を継承する必要がありました。

私たちも、神ご自身よりももっと手近なものを頼ろうとする傾向があります。しかし、モーセが死んだように、それはいつまでも続かない。神だけに頼るために、他に頼るものがなくなる必要があるかも知れません。

責任と共に、約束も継承します。神は約束の地をすでに与えていると言われます。そして、共にいて、見放さず見捨てないと約束して下さいます。

「強くあれ、雄々しくあれ」という命令は、神が共にいるという約束と共に与えられているのです。そして、強く雄々しくという命令は直接的に敵と戦う励ましではなく、神のことばを守り行うためと言われます。大切なことは神のことばに従うことなのです。そうするならば繫栄すると約束されます。

この神様と共に、約束と共に、人生の冒険を楽しみた

願います。


2022年9月11日

天国の希望

ピリピ1:21-23,2:17-18,黙示21:3-4

 

先週日曜日に教会員の方のご葬儀がありました。その時に、天国の素晴らしさを知っていること、天国に行ける約束があること、天国で再会できる希望があることがどれほどありがたいかを、改めて実感しました。

使徒パウロは、何度も死に直面し、天国を身近に感じていましたが、彼は地上よりも天国にいる方が、キリストと共にいられるのではるかに素晴らしいと語っています。

ですから、福音を伝えたために殉教の死を遂げたとしても、それを喜びますと書いています。しかも、手紙の受取人であるあなた方も、一緒に喜んでくださいとまで書いているのです。

その天国は、神がおられ、私たちの人生の苦しみを知り、涙をぬぐって慰めて下さるところです。そこにはもはや、苦しみも悲しみもなく、ただ喜びと感謝にあふれた、麗しい場所です。

年をとることは死に近づくことでもありますが、この天国を知り、死を恐れず希望をもって生きることができるなら、なんと幸いでしょうか。


2022年9月4日

驚くべき不信仰

マルコ 6章1-6節

 

主イエスは、2つの奇跡で2人の人を助けたのち、弟子と共に郷里のナザレに行き、そこで同じように安息日に会堂で教えました。それを聞いた地元の人たちは、教えに驚くと同時に、なぜどこから知恵や奇跡をおこなう力を得たのかと言って、逆に信じられない気持ちになったのでした。

地元の人は、自分たちが知っているイエス様ではないという事実を受け入れられず、「信じられない」という反応になってしまったのです。本来ならばよく知っていることはプラスに働くはずが、マイナスに作用したのです。

主イエスは、そういうことはある、と言われます。私たちも、自分の理解できる範囲に主イエスを小さく狭く押し込めようとして、その偉大さが分からないということがあるのではないでしょうか。そうすると、主イエスが私たちに力あるわざを行なって下さる機会を、私たちがつぶしてしまう事になります。

5章で主イエスにすがって癒された長血の女性や会堂司ヤイロのように、「恐れないで、ただ信じていなさい」とのお言葉を信じたいと心から願います。


2022年8月28日

キリストによる平和

エペソ 2章11-18節

 

ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。


2022年8月21日

キリストの思いを

ピリピ 2章1-8節

 

ピリピ書は、喜びの手紙と言われます。パウロが獄中から書いているのに、喜びにあふれた内容だからです。そしてそれは、ピリピ教会の人たちが失いかけていたものでした。

今日の箇所で、パウロが「私の喜びを満たして下さい」と書いていますが、ピリピ教会の人たちの愛と思いと祈りが一致することがパウロの喜びだったのです。ピリピ教会はパウロを良くサポートし続けた素晴らしい教会でしたが、一致できないという課題を抱えていたのです。

しかし、キリストを信じて救われた者という共通の土台があり、その恵みを経験している者たちとして、一致することができるはずでした。パウロはそれを願ったのです。

一致に必要なことは、謙遜です。自分の意見や考えが正しい、他の人が間違っている、気づいていない、と無意識に考えてしまうことが、成長と一致を妨げるのです。

また、謙遜は、主であるキリストのお姿でもありました。キリストを信じる者として、お手本であるキリストに似た者になる。それが成長であり、神はそのように私たちを成長させて下さるのです。


2022年8月14日

平和をつくる者

マタイ 5章6-9節

 

8月15日は日本の敗戦の日であり、またロシアによるウクライナ侵略が続く中、改めて平和について考えさせられます。

聖書の中で平和を表す言葉は、旧約のヘブル語シャロームと新約のギリシャ語エイレーネです。これは単に争いがないだけの状態よりももっと積極的に良い状態を表す言葉で、平安とも訳されます。それは、神の正しさが社会に実現し、結果として繁栄し、争いがなく調和している事です。それは特に弱い立場の人がどういう状況に置かれているかで判断できます。

平和=より良い状況を作り出すために、時には現状を反省し、正していく必要があります。そのためには摩擦や誤解や対立を覚悟することも求められます。自分に直接関係のない事柄で、そのような犠牲を払ってまで平和をつくる者になれるものでしょうか。

神に愛されていることを知り、神を信じ、神に救われた者にはそれができると語られます。まず神と和解し、神との間に平和を与えられ、それを味わうからです。また、神が実際に助けて下さるからです。

神から注がれる愛によって、私に関わるすべての領域で、平和をつくる者となることができるのです。


2022年8月7日

恐れず、ただ信じなさい

マルコ 5章21-24、35-43節

 

ヤイロという人が、恥も外聞もなく主イエスの前で土下座をして、今にも死にそうな娘を直して下さいと頼んだことに応えて、主イエスが向かいました。その途中に先週の長血の女性が割り込んできたのでした。

女性が癒され、主イエスに声をかけていただいたその時に、ヤイロに絶望的な知らせが届きます。娘が亡くなったというのです。

ヤイロは主イエスと長血の女性とのやり取りを、早く来てほしいとハラハラしながら待っていたでしょう。それが、ついに間に合わなかったのです。どれほど落胆し、絶望したでしょうか。しかし主イエスは、「恐れないで、ただ信じていなさい」と語られます。

私たちは、もう駄目だ、手遅れだ、と感じるような経験をし、絶望を感じることがあるかも知れません。しかし主イエスは、そこで「恐れず、ただ信じなさい」と言われるのです。それは、最大の問題である死に打ち勝つからこそ語れる言葉でした。

実際、ヤイロの娘は亡くなっていたのに、主イエスが眠りから起こすようにしてよみがえらせました。十字架にかかり、死んでよみがえられた主イエスは、私たちにも同じように死すら恐れる必要がないと語り、経験させて下さるのです。


2022年7月31日

信仰があなたを救った

マルコ 5章21-34節

 

ゲラサ人の地からもう一度ガリラヤ湖を渡って戻ってきた主イエスが次に出会ったのは、長年婦人科系の病気に苦しんできた女性でした。厳密には、彼女はそっと近づいて主イエスの衣にだけ触れて、そっと立ち去るつもりだったようです。

しかし、衣に触れただけで長く苦しめられてきた病気がすぐに直っただけでなく、主イエスが「誰が私の衣に触ったのですか」と問い続けられたので、白状するような気持で自分が触ったと申し出たのです。真実をすべて話したとありますので、なぜ、どのように近づいて衣に触れたのかを全部話したのでしょう。

それを聞いた主イエスは、彼女を責めるのではなく、「あなたの信仰があなたを救った」と褒め、病が癒されたことを宣言されました。そっと去っていたとしたら、彼女が癒されたこと、また癒された行動の原動力となった彼女の信仰が、人々に明らかにならないままだったと思います。それを主イエスは明らかにし、彼女の今後の生活に祝福があるようにと送り出されたのでした。

先を急いでいるはずの主イエスが、病が癒されるだけでも大感謝なのに、期待している以上のもの、本当に必要なものをくださったのです。


2022年7月24日

敵を愛しなさい

ルカ 6章27-36節

 

「あなたの敵を愛しなさい」という主イエスの言葉は、黄金律として知られます。聖書になじみのない方でも知っているくらい有名であると同時に、そんなことできるはずないという風に言われます。

主イエスは、神を求め神を信じる者に対して、敵を愛しなさいとはっきり語られました。これは愛情を感じなさいということではなく、愛を行いなさいということです。受け入れがたい相手でも、その人に善を行い、祝福し、祈る。また、惜しまず与える。それを求められます。

お返しを期待して相手に良くしたとしても、それは罪人でさえやっていることで、何の恵みをいただけるかと言われるのです。こんなこと、できるはずないと思います。

しかし、できる道があります。それは、主イエスの愛を経験することです。

主イエスは、自分を十字架につける人たちを「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているかが分かっていないのです」と祈られました。あなたのためにも祈られました。この主イエスが、敵を愛することを可能にして下さるのです。この敵意に満ちた社会においても。


2022年7月17日

自分の命を救う

マルコ 8章31-35節

 

有名なペテロの「キリスト告白」を受け入れた後で、主イエスは早速、はっきりと受難を予告されます。それを聞いたペテロは、我慢できず主イエスをいさめました。弟子が師を教えるようなことをしたのです。

主イエスは「下がれ、サタン」と答えられました。主イエスを、全ての人を救うための十字架に向かわせないのは、まさにサタンの誘惑でした。

しかし主イエスは、自分の苦しみを避けることが一番ではないとはっきりと宣言されました。そしてそれは、主イエスに従いたいと願う者も同じだと言われます。苦しむことを恐れず、避けず、主イエスに従うようにと迫られるのです。

信仰の基本は喜びです。主イエスに愛されている、主イエスに救われた喜びで、ついて行きたいと願うのです。

その喜びゆえに、一般的な「成功」を求める生き方ではなく、主イエスに従って「十字架を負う」生き方ができるようになるのです。

自分の力で救いを得るのではなく、主イエスと福音のためにいのちを失うことが、結果的に命を救うと言われます。私たちの発想の逆転が必要なのです。

主イエスのため、福音を伝えるために、犠牲をいとわず主イエスについて行く者となりたいと心から願います。


2022年7月10日

主がどんなにあなたを

マルコ 5章1-20節

 

4章最後の嵐を超えて、たどり着いた「向こう岸」には、悪霊に憑かれた人が墓場で生活していました。生活と言っても、鎖と枷を引きちぎり、昼夜叫び続け、石で自傷行為を繰り返す、悲惨な状況でした。

彼は主イエスを見つけて走り寄りますが、悲惨な状況なのに構わないでほしいと願います。救いを拒む、悪霊の言葉だったのでしょう。

しかし主イエスは、悪霊に名前を言わせ、彼から追い出しました。圧倒的な力の差です。唯一、豚に乗り移らせてほしいという悪霊の願いをきかれ、豚の群れが湖に飛び込んで死んでしまいました。

彼は正気に戻って服を着て座っていますが、豚で損害を受けた人たちは、彼が救われたことを喜べず、なんと主イエスに出て行ってほしいと願うのです。確かに大損したかも知れませんが、お金でしか価値が量れなかったのでしょうか。

癒やされた彼は、主イエスについて行きたいと願いますが過去の自分を知っている地元に残って、今の自分になれた恵みを語るようにと断られます。その彼の証言で、人々は驚きました。人が神に変えられ、周りはその変化、神の御業に驚くのです。


2022年7月3日

主がどんなにあなたを

マルコ

 

4章最後の嵐を超えて、たどり着いた「向こう岸」には、悪霊に憑かれた人が墓場で生活していました。生活と言っても、鎖と枷を引きちぎり、昼夜叫び続け、石で自傷行為を繰り返す、悲惨な状況でした。

彼は主イエスを見つけて走り寄りますが、悲惨な状況なのに構わないでほしいと願います。救いを拒む、悪霊の言葉だったのでしょう。

しかし主イエスは、悪霊に名前を言わせ、彼から追い出しました。圧倒的な力の差です。唯一、豚に乗り移らせてほしいという悪霊の願いをきかれ、豚の群れが湖に飛び込んで死んでしまいました。

彼は正気に戻って服を着て座っていますが、豚で損害を受けた人たちは、彼が救われたことを喜べず、なんと主イエスに出て行ってほしいと願うのです。確かに大損したかも知れませんが、お金でしか価値が量れなかったのでしょうか。

癒やされた彼は、主イエスについて行きたいと願いますが過去の自分を知っている地元に残って、今の自分になれた恵みを語るようにと断られます。その彼の証言で、人々は驚きました。人が神に変えられ、周りはその変化、神の御業に驚くのです。