礼拝説教 要約と音声


礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。

2023年9月24日

天国に行くには

ヨハネの福音書14章1-6節

 

 この聖書の箇所は、主イエスが天国に行く道について教えている有名な箇所です。直前の対話で、主イエスがすぐにでもどこかに行ってしまわれそうな話をされ、意味がよく分からないので弟子たちの心は混乱していました。その弟子たちに、心を騒がせずただ信じなさいと言われたのです。 

主イエスは、天国に場所を備えに行き、迎えに来て下さること。そこに行く道は弟子たちも知っている。と説明されましたが、それでも分からずトマスという弟子が「道が分かりません」と答えます。それに対して、主イエスご自身が真理を教え、いのちを与え、天国に導く道であると教えられました。主イエスを知ることが天国への道、主イエスを信じることが天国への道なのです。 

先に天国に行かれた方たちをしのびつつ、私たちも主イエスという道を通って天国へ行き、懐かしい方々と再会する事を楽しみに生きられますように。 


2023年9月17日

神の祝福がありますように

民数記6章22-27節

 

この民数記の箇所は、神がイスラエルの民をしゅkく服 された有名なことばです。今年の敬老ジョイフル礼拝で は、この祝福の言葉を年長の方々のために祈ります。 神の祝福がありますように。祝福を妨げる悪いものや 状況から守られますように。 神の御顔の光が照らし、神のあわれみや救いを受け、 喜びが湧きますように。受けるにふさわしくない私たちに も届きますように。 神の御顔が向けられ、神に愛されていることを知り、 神を敬えますように。そこに本当の平安があり、人生が 充実しますように。 この祈りは、高齢という弱さの中でどのように実現す るのでしょうか。土の器に例えられる弱い肉体だからこ そ、その中に測り知れない神の力が与えられたら分かる。 肉体が衰えて行っても、心が、精神が、信仰が日々新た にされていく。なんという恵みでしょうか。 この祝福を受け取っていただきたいと切に祈ります。 


2023年9月10日

神が結び合わせる

マルコの福音書10章1-12節

 

 主イエスがユダヤ地方に行かれても、群衆が集まって来たので彼らを教えます。そこにまたパリサイ人が来て、主イエスを困らせるために、夫が妻を離縁することが正しいかという質問をしました。主イエスは、モーセはなんと命じたか尋ね、パリサイ人はモーセは離縁することを許したと答えます。夫の権利であるという理解です。 

しかし主イエスは、モーセではなく創造の時まで遡って説明されます。結婚は神が人間の幸せのために定められたものであり、人間がそれを破ってはいけない。人間のかたくなさのゆえに、仕方なく離婚を許されたのだ。と言われます。 

神が結び合わせたものを人が引き離してはならない。結婚した男女が一体となり、互いに愛し合うことを求め、あきらめずに生きていくことを神は望んでおられるのです。 


2023年9月3日

神の国に入るには

マルコの福音書9章42-50節

 

 今日の箇所には、つまずかせるという言葉が何度も出てきます。これは、歩いている時につまずいて転ぶように、神様を信じる信仰の挫折を経験し、信仰を失う事です。それが非常に重大なことなので、誰かが人をつまずかせるくらいなら、つまずかせる側が海に投げ込まれた方がいいと言われます。 

また他人ではなく自分をつまずかせるものを持っているなら、手足や目のように大事であっても切り捨てた方がいいと言われます。五体満足で地獄に行くより、手足や目を失ってでも天国に入る方がいいのだと言われるのです。信仰者として、つまずかせない、天の御国に入る、真の命を得る事がどれほど大切かと教えられます。 

信仰者のあり方として別の角度から、塩気を保つようにとも教えられています。私たちは試練を通して本当に価値あることを学び、それが塩気として自然と他者への良い影響をおよぼします。私たちは自分の問題を解決していただいたり救いをいただくだけでなく、他の人を救いに導くために用いられるのです。共に神の国に入るために。 


2023年8月27日

悪に負けるな

 ローマ人への手紙12章17-21節

 

 8月は78年前の敗戦を思い出させ、また昨年からのウクライナでの戦争も常に心にあります。なぜ平和を願いながらも戦争が起こるのでしょうか。この聖書の箇所からは、悪に対して悪を返すこと、復讐が一つの理由であるとわかります。(もちろん人間の欲が原因でもありますが) 

相手が自分に対して悪いことをしてきたと受け取ると、多くの場合は相手に仕返しをすることを考えるでしょう。そして互いに仕返しする中でエスカレートして行き、争うが大きくなって行きます。 

聖書を通して神は、復讐や正しい裁きは神の役割なので、あなたは敵に善を行いなさいと命じられます。私たちが善を行う事で、敵に対する裁きが積み上がる。また悪に悪を返すことは、私たちが悪に負けることであり、善を行うことが悪に勝つことになるのだと言われるのです。 

正しく裁かれる神にお任せするのは、簡単ではありません。しかし神は、神を信じる者を、復讐する者から赦す者へと変えて下さるのです。 


2023年8月20日

神の心を愛する者へと変えられた

マタイの福音書5章17-20節

 

 5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。 

5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。 

5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。 

5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。 


2023年8月13日

味方は多い

マルコの福音書9章38-41節

 

 仲間というのは、尊いものです。しかし、仲間だけでと思いすぎると他の人を受け入れなくなり、特権意識が加わるとさらに排他的になります。この箇所の弟子たちもそうだったようです。 

主イエスの名前で悪霊を追い出していた人をやめさせようとした、理由は私たちについて来なかったからだと。この「私たち」に特権意識を感じます。それに対する主イエスの答えは、「やめさせてはいけません!」でした。 

主イエスの名前で奇跡を行った後で、主イエスを悪く言えるはずがない。反対しない人は味方だ。と言われるのです。なんという懐の広さでしょうか。この考えなら、味方はとても多くなります。 

さらにキリストに属する、つまりクリスチャンだという事で水を1杯飲ませてくれる人は、必ずその報いを神から受けると言われます。神を信じる者への小さな親切ですら、神に覚えられるのです。 

自ら敵を作らないようにしたいと、自戒を込めて考えさせられます。私たちの味方は多いのです。 


2023年8月6日

先頭に立ちたいなら

マルコの福音書9章30-37節

 

弟子たちが追い出せなかった霊を追い出された後、主イエスは2回目の受難予告を語られました。しかし弟子たちには理解できず、尋ねるのを恐れたとあります。恐れはいろんなコミュニケーションを妨げます。 

その受難予告が理解できないという状況で、彼らが何を話していたかというと、だれが一番偉いかという事でした。主イエスの予告を聞きながら、自分の事を考えているのです。 

その彼らに主イエスは、先頭に立ちたい人は、逆に後ろに行き、仕えなさいと言われました。これは、人より先になり上に立つ者になりたいという発想が間違っているという事です。真のリーダーは、自分が重要人物として扱われることを求めるのではなく、主イエスが自分の命を犠牲にして私たちを救って下さったように、仕える者となる必要があるのです。 

それは、私のために死んで下さった主イエスを知ることから可能になります。喜んで仕える者となれますように。 


2023年7月30日

信じる者と共にいて

ヨハネの福音書20章24-29節

 

24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 

25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。 

26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 

27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 

28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」 

29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」。 


2023年7月23日

心の渇きを癒やす方

ヨハネ4章1-15節

 

 熱中症なりそうな暑さの中では、水分補給が生命線です。現代はいつでも飲もうと思えば水が飲めますが、主イエスの時代には井戸から水を汲み上げなければ飲むことができませんでした。 

主イエスは旅の疲れで井戸の傍らに座っておられました。この旅でこの女性と出会うためにサマリアを通ったようです。そして彼女に「水をください」と頼まれました。助けを願う形で対話を始められたのです。 

その対話の中で、最初に水をくださいと言ったはずの主イエスが、逆に生ける水を与えると言われます。それはこの井戸から汲む水の事ではなく、心の中から湧き出てくるものだと言われるのです。 

彼女はその意味がすべて分かった訳ではないようでしたが、でもその特別な水が欲しいと感じました。それで、「私にもその水を下さい」と願ったのです。主イエスが下さるものが何なのか、全てを正確に理解できなくても、それが素晴らしいもので、私にはそれが必要だ、という事さえ分かればいいのです。 

あなたもぜひ、主イエスに願って下さい。 


2023年7月16日

主の御心なら

 ヤコブ4章13-17節

 

 新会堂の設計を話し合い決めていく際に、自分の意見をちゃんと伝えることと、自分の意見が通らなくても主に委ねる信仰を共有したいと願ってきました。これは、日常生活のすべての領域にも適用すべきことです。 

今日の箇所で、1年間ある場所で商売して儲けようと計画することが例に挙げられます。それ自体は決して悪いことではありませんが、そこには自分が本来明日をも知れない身であることを忘れている傲慢があります。自分の命を自ら支える事すらできない、はかない存在であることを忘れていると。 

そうではなく、「主の御心ならば、生きて、あれこれしよう」と考えるべきなのです。生かされていることも主の御心、何かをする力が与えられているのも主の御心なのです。それが本当に分かれば、何かにこだわったり執着したりすることから解放されます。禅が教える無の境地とは違う、全能の神の愛の計画を信じる平安です。 

それは自己中心な誇りとは無縁ですし、逆になすべきことをしっかりと行うことができます。そのように神にゆだねる心の安心を常に持ち、喜んでみこころを行いたいと願います。 


2023年7月9日

祈りによらなけれ

マルコ9章14-29節

 

 主イエスの栄光を目撃した高い山の上から降りて他の弟子たちの所に戻ると、別の騒動が起こっていました。残った弟子たちは、連れて来られた子どもから汚れた霊を追い出せず、律法学者と議論になっていたのです。 

それは、祈りが違っていたからだと想像できます。以前(6章)は、神様の働きに用いてくださいと祈っていたのに、今回は私が追い出すのに力を貸して下さいという祈りになってしまっていたのではないでしょうか。私たちは自分に力があるのではなく、神の働きに用いられる時に力が与えられるのです。 

父親の「信じます。不信仰な私をお助け下さい」という告白を引き出して、主イエスは汚れた霊に出て行けと命じられます。言葉だけで霊は出て行ったのです。 

私たちの祈りも、私がこうしたいので力を貸して下さいと言う、私の働きを助けて下さいと言う祈りではなく、神の働きにあずからせてくださいと祈る時に、答えられて行きます。そのような祈りによって、神の働きを経験できるのです。 


2023年7月2日

聖書の通りに

マルコ9章9-13節

 

 変貌山での出来事の後、山を下りる時に主イエスは「人の子が死者の中からよみがえる時まで」見たことを他言しないように3人の弟子に伝えられました。彼らは、それがどういうことかを論じながら山を下ります。 

またそれに関連して、まずエリヤが来るはずという預言の意味を主イエスに尋ねました。主イエスは、エリヤがメシヤのための備えをするのだと答えられ、同時にエリヤがすでに来た事(バプテスマのヨハネがエリヤの再来としてその役割を果たしました)を教えられました。そして、再来のエリヤとしてのヨハネと、メシヤである主イエスの両方について、聖書に書かれたとおりに苦しみを受けることを預言されたのです。 

弟子たちは、主イエスをメシヤ(約束の救い主)と信じていましたが、聖書に書かれたことを理解できていませんでした。メシヤは王として君臨されるのではなく、苦しみを受けられるのだという事が分かっていませんでした。 

聖書が語っていることを知り、信じることができますように。