礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。
マルコ15章16-32節
ローマ総督ピラトからローマ兵に引き渡されたイエスは、十字架につけられる前からさんざんあざけられます。
ローマ兵たちは、「ユダヤ人の王」という罪状から、衣や冠、敬礼など王に対する態度で馬鹿にし、暴行し唾を吐きかけます。
十字架にかけられてからは、群衆も、祭司長や律法学者たちも、「十字架から降りて自分を救え」とか「十字架から降りてみろ。そうしたら信じるから」とあざけります。偉そうなことを言いながら、お前にはそんな力はないだろう、と言うのです。
イエスは、今すぐにでも十字架を降りることができる力を持ちながら、何も言い返さず、その苦しみに耐え続けられました。なぜなら、十字架によって私たちの罪の身代わりとして死ななければ、私たちの救いはないす。力がなかったのではなく、救いのために必要だから十字架から降りられなかったのです。
私たちのためにこの苦しみを受けて下さったイエスを、自分の救い主として信じることができますように。
マルコ15章1-15節
主イエスはゲツセマネで捕らえられた後、夜中に最高法院に調べられました。正式には夜が明けてから最高法院で有罪とし、祭司長たちは意気揚々とピラトの元に主イエスを連れて行きます。
祭司長たちは多くの事で主イエスを訴えますが、ここでも主は黙ったままで釈明せず、ピラトはその姿に驚きます。人間の訴えをものともしない姿です。
次に、過越しの祭りの恩赦について語られます。祭司長たちが妬みで主イエスを引き渡したことを知っていたピラトは、無罪の主イエスを釈放しようとしますが、祭司長たちは群衆を扇動してバラバを釈放させます。ピラトも主イエスが無実だと分かっていながら、忖度で裁判を歪めてしまうのです。
無実で無言の人への判決が、悪意を持って扇動された群衆の大声に影響されて、曲げられる。一見大声が勝ったように見えます。しかし、実は無言の主イエスが勝利されたのです。十字架で死ぬことで罪に打ち勝ちました。
罪人の忖度さえも救いのために用いられ、敗北に見えることが実は勝利となる。神の御業の力とスケールの大きさを教えられます。
マルコ14章66-72節
主イエスが大祭司の家で不当な尋問を受けている時に、一度逃げたペテロが中庭にまで入って火に当たりながら、主イエスの様子をうかがっていました。
その時、大祭司の召使の女から、主イエスと一緒にい たと言われてしまいます。しかしペテロは、「何を言ってるのか分からない」と否定してその場を離れました。それでも召使の女が「この人はあの人たちの仲間だ」と言うので、ペテロは再び否定します。
今度は他の人たちが「ガリラヤ人なんだから、あの人たちの仲間だ」と言い出します。言葉のなまりで分かったようです。弟子だと分かると自分の身も危ういと思ったのでしょう、嘘だったら呪われてもいいと誓い始めます。
その時に、鶏が二度目に鳴きました。主イエスが「あなたはわたしを三度否定する」と言われた預言が実現したのです。その事に気づいたペテロは、泣き崩れました。
この大失敗を経験し、自分の無力さを経験したペテロは、主の弟子として成長していくのです。
申命記8章1-10節
新会堂最初の礼拝で、主がイスラエルの民を約束の地に導き入れられる時のみことばを選びました。最初に、神の祝福を受けるために神が命じられるすべての命令を守り行えと語られます。
その内容は、荒野の40年の苦しかった経験を覚えていよ、というものでした。その経験には二つの意味があり、一つは苦しみの中で神の命令を守るか、民の心を知るためだったと言われます。私たちは苦しい時に本音が出ます。苦しみの中で神に頼れるなら本物です。
もう一つは、自分ではどうしようもない試練の中で神が助け、必要を与えて下さる事を分からせるためだと言われます。なんと40年間、彼らの服は擦り切れず、足は痛みませんでした。それは神の訓練でもあり、それによって彼らは強くなれたのです。
そして用意周到に、約束の地に入ってからの事も語られます。満ち足りて神の助けはもう要らないと勘違いし、 神を忘れないように。満ち足りる事のマイナス面です。 「忘れる」のではなく「覚えて」いて、神に感謝してほめたたえるようにと命じられるのです。私たちも、苦しみとそ の中にあった恵みを覚えて、感謝をささげましょう。
イザヤ書43章4節
聖書を通して神様が語っておられるメッセージの最も大切な一つが、「あなたには価値がある」ということです。
「私の目には」という言葉から、深い意味があります。 他人が私をどのように評価しようが関係なく、神は私を愛のまなざしてみて下さるという事です。そして、他人の目が気になる私が、それに影響されて自分でも自分の事を愛せないとしてもそれも関係なく、「あなたは高価で尊 い」と語り掛けて下さるのです。私たちは、自分で頑張って、自分の価値を証明しなくてもいいのです。神は「私の 目にはあなたは高価で尊い」と語って下さるのです。
それゆえに、神は主イエスを私たちの代わりにすると 語られました。それが主イエスが地上に来られる700年 も前に語られているのです。愛には犠牲が伴いますが、父なる神はご自分より大切なひとり子の神、主イエスを犠牲にされました。主イエスは、ご自分のいのちを犠牲にされました。それが、神が私たちを愛して下さっている証拠なのです。
あなたには価値がある。このメッセージを受け取ることができたら、私たちの人生はどんなに素晴らしいでしょうか。神様の語り掛けがあなたの心に届きますように。
この大変な状況は御言葉によって預言されていたことに気づき、使徒としてふさわしい条件をあげつつも、最後は神が選んで下さるように祈り求める。そのようにして、リーダーである使徒が選ばれたのです。
マルコ14章53-65節
ゲツセマネの園におられる主イエスを襲って捕らえた祭司長・律法学者・長老たちは次に、主イエスを死刑にするための証言を探しました。死刑ありきの不当な取り調べを行なったのです。
最高法院全体でも死刑にする証拠は見つかりません でした。多くの人に偽証させても、嘘のすり合わせが不十分で証言が一致しません。業を煮やした大祭司が「お前は神の子キリストなのか」と尋ねた時に、主イエスはそれまで秘密にしておられたこの事実、彼らがもっとも欲しがっていた証言を、ご自分から語られたのです。
主イエスを陥れようとする者たちの企みが全く成功しなかったのに、主イエスご自身が神の子であることを宣 言されたことによって、死刑が確定したのです。黙ってい れば十字架にかけられなかったのに、あえて自らが、救い主であることを告白されたのです。
これは、主イエスが十字架にかけられたのが、彼らの悪巧みから逃れられなかったのではなく、主イエスのご意思だという事です。そして、十字架にかかって私たちを救うのが救い主の御業なのだという事を表しています。
主イエスは、私たちのために自ら十字架向かって行き苦しみを全うされ、救いを成し遂げ、そしてもう一度来て救いを完成して下さるお方なのです。
ダニエル3章1-7、13-30節
BC600年頃イスラエルはネブカドネツァル王に攻撃され、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4少年がバビロンに連れて来られました。ベルテシャツァル、シャデラク、メ シャク、アベデ・ネゴと名付けられエリート教育を受けます。
ネブカドネツァル王が巨大な金の像を建て、ひれ伏して 拝まない者は炉に投げ込まれると命令を出した時、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人が拝んでいないと密告 する者がいました。とがめられた3人は、「本物の神が炉の中から救い出して下さる。たとえそうでなくても、私た ちは金の像を拝まない」と宣言し、炉に投げ込まれます が、神が奇跡的に炉の中から救い出して下さいます。
このように信仰ゆえに迫害される国が現代でも驚くほど多くあります。また、国などが神でないものを無理に礼拝させようとする事が日本でもあります。独裁国家は指導者を神格化します。 私たちの信仰の良心が侵されないため、全ての人の生きる権利が守られるため、私たちの住んでいる国の指導者のために祈る必要は大きいのです。
この大変な状況は御言葉によって預言されていたことに気づき、使徒としてふさわしい条件をあげつつも、最後は神が選んで下さるように祈り求める。そのようにして、リーダーである使徒が選ばれたのです。
使徒1章15-26節
今日の箇所では、12使徒の一人でありながら主イエスを裏切ったユダの代わりの使徒を選んでいます。ゆだねられた働きを進めるために、単に補充するだけでなく、問題を振り返ったうえで、それが預言の成就であることを確認し、神の御心を求めて人選しました。
まずペテロが120人の弟子たちの中で、欠員補充の必要を語ります。預言されたとおりの事が起こったので、みことばのとおりに後任を選ぶ必要があるのだと説明します。
その資格は、主イエスの働きの初めから使徒たちといつも一緒にいた人であることでした。使徒と一緒にいた弟子ですから、目撃証人であると同時に熱心な弟子でもあります。それが使徒にふさわしい条件でした。
2人の候補者を挙げて、決定はくじを引きました。偶然に任せるという事ではなく、祈りつつ、そこに御心がなされることを信じて、神が選んで下さるようにと願ったのです。
この大変な状況は御言葉によって預言されていたことに気づき、使徒としてふさわしい条件をあげつつも、最後は神が選んで下さるように祈り求める。そのようにして、リーダーである使徒が選ばれたのです。
ヘブル4章12-13節
去年は自民党の裏金問題や、有名芸能人のスキャンダルに伴うテレビ局の問題など、隠されていた大きな罪が明らかになりました。神の目にはそれらは隠しおおせず、いつか明らかになるのだと思わされます。
まず私たちを調べるものは、神のことばである聖書です。鋭い剣以上に、私たちの心を調べ、良いものと悪いものとを見分けます。聖書の言葉はただの言葉ではなく、生きていて、力があるからです。
その聖書の言葉を記され、今も語られる神は、私たちが隠していることも全て知っておられます。神の目には、全てが見えるのです。私たちは、その神に弁明しなければならない時が来ると言われます。
私たちは、神に対して、弁明できるだけのものを持っていません。罪を隠しているという点で、全ての人は同類です。その私たちのために主イエスが十字架にかかり、身代わりとなって罪の罰を受けて下さったのです。
神に監視されているように感じるのではなく、神に愛されていることを感じていただきたいと願います。
マルコ14章43-52節
ゲツセマネの園での徹夜の祈りの最後に、イエスを裏 切ろうとしていたユダが現れます。祭司長たちに差し向 けられた武装した群衆と共に、暗がりでも誰がイエスか 分かるよう教える合図まで事前に打ち合わせて。なんと その合図は、親愛を示す「口づけ」でした。ユダの良心が 本当に麻痺していたことをうかがわせます。
逮捕に抵抗して弟子の一人が剣で大祭司のしもべに 切りかかり、耳を切り落としてしまいます。主イエスは、ご 自分が毎日宮で教えていた時には何もせず、夜中に強 盗を捕まえるような装備で来た彼らの異常さを指摘され ました。しかし抵抗はせず、聖書が成就するためと説明さ れたので、弟子たちは全員逃げてしまいました。
ある青年が主イエスについて行こうとして捕らえられ そうになり、身にまとっていた亜麻布を脱ぎ捨てて裸で 逃げたというエピソードは、主イエスを守るべき弟子たち が何もできなかったことを際立たせています。
ユダの裏切りと、使徒たちのふがいなさすら織り込ん で、主イエスは旧約聖書の預言通りに十字架へと進んで 行かれるのです。裏切るような罪人をも救うために。
マルコ14章32-42節
ゲツセマネはエルサレム東のオリーブ山にありました。 11人の使徒と一緒に夜遅くにそこに着き、主イエスは3 人だけ連れて少し先に進み、もだえ苦しまれます。そして 彼らに目を覚ましているように伝え、さらに進んで行って ひれ伏して祈られました。
その祈りは、できるならこの後の十字架の耐え難い苦 しみを受けずに済むようにと言う正直な思いの告白でし た。同時に「しかし、わたしの望むことではなく、あなたが お望みになることが行われますように」と、恐怖に打ち勝 ってみこころを求める祈りでもありました。
主イエスが血のにじむような祈りをしておられる時に、 しかし弟子たちは寝てしまっていました。肉体は弱い。だ からこそ余計に、誘惑に陥らないように、目を覚まして祈 る必要があります。主イエスが3度目に祈って戻って来ら れると、弟子たちはまた寝ていました。
私たちを祈れないようにする誘惑は、何でしょうか。考 えてみてください。
その誘惑に打ち勝って、祈るためにはどうしたらいい のでしょうか。神の語り掛けをしっかり受け止め、祈れる ようにと祈り求め、励まし合って心を一つにして祈る事で はないでしょうか。
使徒1章12-14節
オリーブ山の上から主イエスが天に昇って行かれるという、途方もない奇跡を経験した後で、使徒たちは日常に帰りました。エルサレムで泊まっていた部屋に帰りました。しかしその日常は、前と同じではありませんでした。
違いの一つは集っている人たちです。使徒は全員そろって、使徒以外にも女性の弟子、イエスの母マリア、イエスの兄弟たちが集いました。彼らはいつも心を一つにしていたとあります。一つになれないはずの面々が同じ場所に集まり、一つにされたのです。
違いの二つ目は、一つにされた彼らがしていたこと、祈る事でした。主イエスから「エルサレムを離れず、父の 約束の成就を待ちなさい」と言われ待っている時に、同じ場所に集まって、顔と顔を合わせて、一緒に祈ったのです。個人で祈ることはもちろん大切ですが、一緒に集まって、心を一つにして祈ること。それがみことばに従う事でした。
現代の私たちも、ともに集まって、心を一つにして祈ることを大切にしたいと思います。ぜひ、教会の祈祷会に共に集い、あるいは何か他の形でも集まり、みことばを分かち合い、祈りましょう。みことばに従うなら、そこに必ず神の祝福があります。
エホバの証人(ものみの塔)・統一協会(教会)・モルモン教とは関係ありません