礼拝説教 要約と音声


礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。

2024年2月18日

何の権威で

マルコ11章27-33節

 

 宮きよめの出来事から、主イエスをどうしたら殺せるかと相談し始めた祭司長や律法学者たちが取った手段は、主イエスへの信頼や人気をなくすことでした。主イエスに宮で難しい質問を投げかけ、それに答えられない姿を群衆にさらしたいと考えたのでしょう。 

主イエスは、逆に「ヨハネのバプテスマは天からか人からか、どちらから出たのか」と質問することで切り抜けられました。これは単なる鋭い切り返しではなく、神のわざを素直に認めるよう考えさせるためでもありました。 

しかし祭司長たちは、答えによって自分たちの立場が危うくならないようにという判断を優先し、答えない事を選択しました。本来なら、天からの権威には従い人からの権威には従わないという姿勢を貫くべき人たちが、「分かりません」という答えによって自分の権威を守ろうとしたのです。 

私たちも、自分の権威や利益を失うことを恐れて、神に従わないということがあるのではないでしょうか。自分の権威を脅かしたり、変わるように促す声に耳を閉ざして、「分かりません」と逃げるなら、主イエスの事が本当に分からなくなります。 

主よ、あなたを信じ権威に従う者として下さい。 


2024年2月11日

自由を得させるために

ガラテヤ5章1節

 

このガラテヤ書の内容は、直接的には律法主義(律法を守ることによって神に喜ばれ、救われるという発想)に対する「自由」が語られています。

私たちは、自分の行いによっては救われません。神の基準に達する生き方はできないのです。だからこそ、罪深い私たちの身代わりに死んで下さった主イエスのゆえに、信じるならば救われるという福音を信じるのです。

そのように主を信じて救われたはずなのに、なぜまた良い生き方によって救われるという発想、律法主義の奴隷状態にいつの間にか戻ってしまうのか。それは残念ながらそちらの方が罪人にはしっくりくるからで、律法主義は根深いのです。

また、信教の自由という事を考えると、敗戦まで日本では天皇を神として拝み、絶対服従するよう強制されました。それは過去の事ではなく、「建国記念の日」もその復活の一つです。法律も、意識しないうちにどんどん変えられてきています。

再び奴隷のくびきを負わされないように、目を覚まして国の動向にも関心を持ち、少しでも正しい方向に進むように意識し、祈る者でありたいと願います。政治や日常生活にも、主の主権があらわされますように。


2024年2月4日

祈りを励ます

マルコ11章12-25節

 

 この箇所からのお話は今日で2回目ですが、同じ個所を「祈りを励ます」というテーマを教えられます。 

主イエスが前日に呪われたいちじくの木が、翌朝早く根元から枯れていたことで、弟子たちが驚きました。しかし主は驚くに足りないと、「神を信じるなら、山が動いて海に入る」と教えられました。普通、山は動きません。私たちの毎日にも、立ちふさがり、歩みを邪魔し、前に進めなくする障害があります。いろんな問題。乗り越えられない苦しみや悲しみ。克服できない罪。そのような山が、祈りによって動くと言われます。神を信じるなら、神が動かして下さるのです。だから、祈った事はすでに得たと信じなさいと励まされるのです。 

また、祈る時に人を赦すなら、あなたも赦されるといわれます。恨みや怒りという山を神が動かして下さるので、私たちが人を赦すという事が可能になります。神が私たちの罪を十字架によって赦して下さるという恵みを味わう中で、私たちは人を赦せるように変えられて行きます。それは、祈りの中で神との交わりに生きる中で、味わえるのです。 


2024年1月28日

神の愛の証し

ローマ5章6-8節

 

ローマ人への手紙は、キリストを信じる信仰について整理して教えています。今日の箇所は、キリストが十字架によって死なれたことによって私たちが救われること、そしてそれこそが神の愛の証明だと語っています。

キリストが十字架にかかって死なれたのは、私たちを救うためでした。その私たちがどんな人間だったかと言うと、弱かったと書かれています。これは自分の力では救われることができない、無力な存在という事です。また不敬虔な者とは、神の権威に逆らっている者です。そして神の前に罪を犯している罪人でした。

人間の常識では、善良な人のためなら死ぬ人もいるかも知れません。でも、正しくても冷たい人のために死ぬ人はいないでしょう。まして罪人のために死ぬ人などいないのです。しかしキリストは、私たちが罪人であったときに、その私たちのために十字架にかかって身代わりとなって死なれたのです。キリストが身代わりとなって下さったゆえに、私たちは信じるなら救われるのです。

そしてそれは父なる神の愛の証明でもありました。私たちのためにひとり子を犠牲にするほどの、想像を越えた愛です。神は私たちが生まれる前から、救いを定めておられたのです。


2024年1月21日

真の礼拝をささげる

 マルコ11章12-25節

 

 今日の箇所の前半は、主イエスがいちじくの木をのろうという珍しいエピソードが紹介されています。これは食べられなかった腹いせをぶつけたのではなく、当然実らせるべき実を結んでいないイスラエルの民の姿を重ねておられるのです。当然ささげるべき真の礼拝をささげていない姿です。

あらゆる民の祈りの家となるべき場所が、強盗の巣になっていると主イエスは言われました。そこは異邦人の庭という場所で、異邦人がそこまでしか入れず、そこで礼拝をしていた場所でした。そこがユダヤ人の礼拝準備のために、商売の場所に成り下がっていたのです。礼拝のために必要とは言え、両替えやいけにえを売る商売をしている人たちで一杯でした。祭司の店もあったと言われます。ユダヤ人が「正しい」礼拝をささげるために、異邦人の礼拝が犠牲になっていたのです。「正しい」礼拝を求める思いの内にすら、他者を省みない強盗のような貪欲があると主イエスは指摘されたのです。 

私たちの礼拝は、どのような礼拝となっているでしょうか。貪欲ではなく、自分をささげる礼拝となりますように。 


2024年1月14日

主は救い出してくださる

マルコ11章1-11節

 

 マルコの福音書は11章から、エルサレムでの主の受難の場面に入って行きます。そのエルサレムへの入城は、王としてのものでした。 

弟子が子ろばを借りる時に、「主がお入り用です」と言わせてあえて主と呼ばせたこと。ろばに乗り入城され、人々が上着や枝を敷いた道を進まれたこと。「ホサナ」から始まる人々の叫びを受け入れられたこと。そのすべてが王として、救い主として来られたことを表していました。 

主イエスと共にエルサレムに入城した人たちは、ホサナ、私たちを救って下さいと叫びました。しかしその人たちが、後で主イエスを十字架につけろと叫ぶのです。本当の意味では、主イエスを迎えていなかったのです。ゼカリヤ書9章9-10節の預言の成就であることが分かっていなかったのです。武力で勝利する救い主ではなく、平和をもたらす救い主であることを理解できなかったのです。 

主イエスは、へりくだった王として、ご自分のいのちを十字架で捨てるために来られました。この方を私たちの心にお迎えし、救いを受け、平和の君として治めていただきましょう。 


2024年1月7日

王として来られた主

マルコ11章1-11節

 

 マルコの福音書は11章から、エルサレムでの主の受難の場面に入って行きます。そのエルサレムへの入城は、王としてのものでした。 

弟子が子ろばを借りる時に、「主がお入り用です」と言わせてあえて主と呼ばせたこと。ろばに乗り入城され、人々が上着や枝を敷いた道を進まれたこと。「ホサナ」から始まる人々の叫びを受け入れられたこと。そのすべてが王として、救い主として来られたことを表していました。 

主イエスと共にエルサレムに入城した人たちは、ホサナ、私たちを救って下さいと叫びました。しかしその人たちが、後で主イエスを十字架につけろと叫ぶのです。本当の意味では、主イエスを迎えていなかったのです。ゼカリヤ書9章9-10節の預言の成就であることが分かっていなかったのです。武力で勝利する救い主ではなく、平和をもたらす救い主であることを理解できなかったのです。 

主イエスは、へりくだった王として、ご自分のいのちを十字架で捨てるために来られました。この方を私たちの心にお迎えし、救いを受け、平和の君として治めていただきましょう。